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エルマー・クリフトン(, 1890年3月14日 - 1949年10月15日)は、アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、映画プロデューサーである〔Elmer Clifton, Internet Movie Database , 2010年4月27日閲覧。〕。エルマー・S・ポンド()、エルマー・ポンド()とも名乗った〔。 == 人物・来歴 == 1890年(明治23年)3月14日、アメリカ合衆国のイリノイ州シカゴに生まれる〔。 1912年(明治45年)、セリグ・ポリスコープ・カンパニーに入社、同社が量産する短篇映画に出演する〔。1915年(大正4年)、自らの主演作で映画監督としてデビューする〔。1917年(大正6年)からは、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)傘下のブルーバード映画で、''A Stormy Knight'' 、『死の飛行』、『人罠』、『鉄の炎』、『悪霊』、『無言の罪』、『鷲』、『熱血の権威』の8作を監督し〔、7作が日本でも公開された〔『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.〕。1919年(大正8年)、D・W・グリフィス監督の『バビロンの陥落』を最後に俳優業は廃業した〔。1920年(大正9年)、同監督の『東への道』ではB班監督・スタントを務め、リチャード・バーセルメスの代役、流氷上のリリアン・ギッシュの遠景での撮影では代役を務めている〔。 1940年代になると、「ポヴァティ・ロウ」と呼ばれる独立系プロダクションの一社・リパブリック・ピクチャーズで西部劇やスリラー映画を量産する監督となり、オリジナルストーリーや脚本を他の監督に提供した〔。 1949年(昭和24年)10月15日、カリフォルニア州ロサンゼルス市で脳内出血により死去した〔。満59歳没。同州グレンデールにあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る〔Elmer Clifton, Find A Grave , 2010年4月27日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルマー・クリフトン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Elmer Clifton 」があります。 スポンサード リンク
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