|
エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー(, 1914年3月18日 - 1987年12月9日)は、ブラウンシュヴァイク公国の公子。ブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグストの長男で世子であったが、ドイツ革命により君主制が倒されたため即位することはなかった。ハノーファー王国の王家の子孫でもあり、1953年から死去まで「エルンスト・アウグスト4世」()としてハノーファー王家およびブラウンシュヴァイク公家の家長であった。 == 生涯 == 1914年3月18日、エルンスト・アウグスト(3世)とその妃であったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の王女ヴィクトリア・ルイーゼの間に長男(第一子)として、ブラウンシュヴァイク公国の首都であったブラウンシュヴァイクで生まれた。出生時からハノーファー王家の男系男子としてハノーファー王子()とブラウンシュヴァイク=リューネブルク公()の称号および殿下()の敬称を、ブラウンシュヴァイク公位の法定推定相続人としてブラウンシュヴァイク公世子()の称号を持っていたが、1918年のドイツ革命により貴族制が廃されたためこれらの称号は法的な根拠を失った。 革命が発生すると両親や兄弟とともにオーストリアへ一時亡命した。帰国後はザーレム(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州ボーデンゼー郡)にクルト・ハーンが開設していたザーレム校で教育を受け、ついでゲッティンゲン大学で法学を学び1936年に博士号を取得した。 第二次世界大戦中、エルンスト・アウグストは陸軍中尉として従軍し、1943年にハリコフ近郊で負傷した。1942年までエーリッヒ・ヘープナーの下に配属されていたため、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画が失敗すると、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト通り(現ニーダーキルヒナー通り)にあったゲシュタポ本部に拘禁された。 エルンスト・アウグストはドイツ人であったが、自身がによってイギリス国籍も持っているとして1951年に提訴し、1957年に貴族院(当時の最高裁に相当する)に主張を認めさせた。 1987年12月9日に73歳で死去した。家長位は長男のエルンスト・アウグスト(5世)が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エルンスト・アウグスト・フォン・ハノーファー (1914-1987)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Prince Ernest Augustus of Hanover (1914-1987) 」があります。 スポンサード リンク
|