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エレフテリオス・ヴェニゼロス(, 1864年8月23日 – 1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期、12年にわたって断続的に長期間首相を務めた。ヴェニゼロスはヨーロッパの政治の舞台で活躍した数少ないギリシャ人政治家であり、イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した〔村田2012、p.142〕。また、ギリシャがバルカン半島の政治における主導的勢力となったのもヴェニゼロスの手腕に依るところが大きい〔ウッドハウス(1997)、p.250.〕。 == クレタ島時代 == 1864年、当時、オスマン帝国領クレタ島のハニアで雑貨商の父キリアコス、母スティリアニの5番目の子として生まれた。1866年から1872年にかけてギリシャ領のシロス島で暮らしたが、この時期にギリシャ国籍を取得したと言われる〔村田2012、p.144〕。 ヴェニゼロスはアテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向にしたがってクレタ島に戻り商売の修行を積んだが、父キリアコスの友人でギリシャの在クレタ総領事でありゲオルギオス・ジコマラス(el)はヴェニゼロスの聡明さに気づいており、父キリアコスを説得、アテネ大学法学部で学ぶことになった〔村田2012、p.145〕。 1883年父キリアコスが死去するとアテネとクレタを往復して商売を続けながら家庭の面倒を見ていたが、1885年に経済状況が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。1886年にイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、イスタンブルのある著名なギリシャ人によるとクレタ島の人々がオスマン帝国からの離脱こそ望んでいるがギリシャへの統合は望んでいないと語っていたという話をアテネの新聞気述べた。これを聞いたクレタ島出身のアテネ大学学生ら5人がチェンバレンに意見するために面会を申し出たが、その中の代表がヴェニゼロスであったという。ヴェニゼロスはチェンバレンにクレタ島の人々がギリシャへの統合を望んでいることを雄弁に語り、チェンバレンはこれに感心したと言われている。1887年には大学を卒業、クレタ島で弁護士を開業するとともに新聞「レフカ・オリ(el)」の編集、発行も行った〔村田2012、pp.145-6〕。 クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国のゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた〔カステラン (1994)、p.188〕。 しかし、ゲオルギオス王子の統治は小心翼翼に見えたことからヴェニゼロスは「エノシス」を呼びかけ、臨時国民議会を招集、その結果、ゲオルギオスは総督を辞任し、元首相のアレクサンドロス・ザイミス(el)が後任となった。ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した〔カステラン (1994)、p.189〕。 1909年にギリシャ王国で軍の将校によるクーデターが起こると、クレタ島における政治手腕を買ったギリシャ政府により招かれアテネにむかった〔。総選挙の実施を主張した彼の提案は受け入れられ、1910年8月8日と11月28日の二度に渡って総選挙が実施された。これらの選挙でヴェニゼロス支持者が多数を占め、8月の選挙にヴェニゼロスは立候補しなかったが、11月の選挙には立候補し、362議席中、300議席を占めたヴェニゼロス派はヴェニゼロスを首相に任命した〔リチャード・クロッグ、(2004)p.73.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eleftherios Venizelos 」があります。 スポンサード リンク
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