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吉本 隆明(よしもと たかあき、1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日)は、日本の詩人、評論家、思想家、東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)〔東京工業大学世界文明センター 講義はビデオ出演のみで、田中理恵子がフェローとして内容の注解を行う。講義内容は「芸術言語論」。〕。 「隆明」を音読みして「りゅうめい」と読まれることも多い(有職読み)。漫画家のハルノ宵子は長女。作家のよしもとばななは次女。 == 生涯 == === 1920年代 - 1940年代 === 東京市月島生まれ。実家は熊本県天草市から転居してきた船大工で、貸しボートのような小さな船から、一番大きいのは台湾航路で運送の航海をするような船〔『吉本隆明×吉本ばなな』p.16 ロッキング・オン〕を作っていた。兄2人姉1人妹1人弟1人の6人兄弟。1937年(12歳)東京府立化学工業学校入学。1942年(17歳)米沢高等工業学校(現 山形大学工学部)入学。1943年から宮沢賢治、高村光太郎、小林秀雄、横光利一、保田与重郎 、仏典等の影響下に本格的な詩作をはじめる。なお吉本は、第二次世界大戦=「総力戦」のもと、最大の動員対象とされ、もっとも死傷者が多く、幼少期は皇国教育が激化し、中等・高等教育をまともにうける機会をもてなかったいわゆる「戦中派」の世代である〔この「戦中派」としての戦争体験に吉本思想の核心を見るものに、小熊英二の『<民主>と<愛国>』(2002.新曜社)がある。〕。 向島の勤労奉仕の後〔富山県にある日本カーバイド工業の工場に動員され、終戦直後、荷物をたくさん背負った復員兵に出会ったことが大きな衝撃を受けたと「思想的不毛の子」で書いている。〕、1945年東京工業大学に進学。在学中に数学者遠山啓と出会っている。敗戦直後、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受けたという。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山啓の二人を挙げている。1947年9月に東京工業大学電気化学科卒業。 1949年、25歳のとき『ランボー若しくはカール・マルクスの方法についての諸注』を、「詩文化」〔小野十三郎、安西冬衛、竹中郁らによる大阪の詩誌〕に執筆。そこでは、「意識は意識的存在以外の何ものでもないといふマルクスの措定は存在は意識がなければ意識的存在であり得ないといふ逆措定を含む」「斯かる芸術の本来的意味は、マルクスの所謂唯物史観なるものの本質的原理と激突する。この激突の意味の解析のうちに、僕はあらゆる詩的思想と非詩的思想との一般的逆立の形式を明らかにしたいのだ」と述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉本隆明」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takaaki Yoshimoto 」があります。 スポンサード リンク
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