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エンリキ・オスワルド(''Henrique Oswald'', *1852年4月14日 リオデジャネイロ – †1931年6月9日 リオデジャネイロ)はブラジルの外交官・作曲家・ピアニスト。「ブラジル近代芸術週間」宣言の後に、忘れられた存在となった。日本では、エンリケ・オスワルドと呼ばれることもある。'Henrique Oswald'', *1852年4月14日 リオデジャネイロ – †1931年6月9日 リオデジャネイロ)はブラジルの外交官・作曲家・ピアニスト。「ブラジル近代芸術週間」宣言の後に、忘れられた存在となった。日本では、エンリケ・オスワルドと呼ばれることもある。', *1852年4月14日 リオデジャネイロ – †1931年6月9日 リオデジャネイロ)はブラジルの外交官・作曲家・ピアニスト。「ブラジル近代芸術週間」宣言の後に、忘れられた存在となった。日本では、エンリケ・オスワルドと呼ばれることもある。 == 略歴 == 両親はヨーロッパからの移民であり、父ハンス・ヤーコプ・オシュヴァルト(''Hans Jakob Oschwald''(もしくは仏名でジャン=ジャック・オスヴァール[''Jean-Jacques Oswald'']とも), 1805年-1878年)がドイツ系スイス人、貴族のピアノ教師であった母カルロータ(''Carlota'')ことマリア・シャルロッタ・ルイーズ・オラーティア・カンタガッリ(''Maria Charlotta Louise Oratia Cantagalli'', 1816年-1903年)はイタリア人であった。オシュヴァルト姓からオスワルド姓への変更は、民族差別への懸念から行われた。 12歳になるまでに最初のリサイタルを開いており、16歳で、ヨーロッパ留学のために、告別演奏会を開いた〔Henrique Oswald: A Biography of a Forgotten Brazilian Master by Fausto Borem de Oliveira 〕。1868年よりフィレンツェにおいてピアニストのジュゼッペ・ボウナミーチに入門する。それからル・アーヴルで、後にジェノヴァでブラジル副領事を務める。 1881年に、フィレンツェ師範学校の校長オッターヴィオ・ガスペリーニの娘、ラウドミア・ガスペリーニ(Laudômia Gasperini)と結婚し、5児を儲けた。そのうち息子カルロス(Carlos Oswald, 1882-1971)は、リオデジャネイロで画家および彫刻家となった。 1902年に『フィガロ』紙主催のピアノ・コンクールにおいて優勝し〔University of Akron's Brazilian Music collection 〕、1903年から1906年までリオデジャネイロ国立音楽学校(''Instituto Nacional de Música'')の校長に就任した。その後ふたたび外交官に転身する。1911年よりリオデジャネイロで作曲家や教師として活動し、数多くの室内楽曲のほかに、交響曲やピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、3つの歌劇を手懸け、さらにピアノ曲や歌曲を遺した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エンリキ・オスワルド」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henrique Oswald 」があります。 スポンサード リンク
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