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オイゲン・オット(Eugen Ott、1889年4月8日‐1977年1月23日)はドイツの軍人、外交官。日本では1941年10月のゾルゲ事件に巻き込まれた駐日ドイツ特命全権大使(在日本ドイツ国大使)として知られる。 == 経歴 == === 軍歴 === ドイツ帝国の南西部、ヴュルテンベルク王国ロッテンブルクに郡議会議員の息子として生まれる。1907年に士官候補生として砲兵連隊に配属。第一次世界大戦では第26歩兵師団(師団長はウラッハ公ヴィルヘルム2世)に従軍。1917年に大尉に昇進し、前線勤務から参謀本部に転属。終戦後の1921年に結婚し一男一女をもうける。 1923年にヴァイマル共和国軍の有力者クルト・フォン・シュライヒャーの部下となり、側近として信頼されるようになる。その出世はシュライヒャーのそれと重なっていた。 1931年に中佐に昇進し、国防省国防軍局長に就任。その職務から、右翼義勇兵組織である鉄兜団やナチス突撃隊との接触があった。オットもシュライヒャーの唱える、民族主義団体やナチス左派、労働組合、共産主義者による大同団結構想の徒となる。シュライヒャーの代理として国会の審議を傍聴することが多かった。また国防次官だったシュライヒャーの上官ヴィルヘルム・グレーナー国防相の追い落としにも間接的に関与している。 さらに1932年11月にパーペン内閣が辞任表明に追い込まれた後、パーペン首相は軍を使ったクーデターによる政権維持を考え、ヒンデンブルク大統領もそれに賛成したが、オットは局長としてパーペン内閣の閣議で「軍がクーデターを起こした場合は、ストライキや外国軍の介入で収拾がつかなくなり、内戦に陥る」という見通しを述べた。これに意気消沈したパーペンは結局退陣するが、後任となったのはシュライヒャー国防相だった。のちにこれは首相の座を狙ったシュライヒャーがオットを使って策謀したのだと言われた。 シュライヒャーが首相に就任する直前の1932年12月1日、シュライヒャーの代理としてヴァイマルの会議に出席していたナチス党首アドルフ・ヒトラーに面談し、副首相ポストと複数の閣僚ポストを提示してナチスとの連立を申し出ている。しかしヒトラーは峻拒してシュライヒャーに対し首相就任を警告し、交渉は不調に終わった。シュライヒャー首相の退陣とヒトラーの首相就任が確実となった翌1933年1月28日、オットやフェルディナント・フォン・ブレドウ(国防省大臣官房長)、エルヴィン・プランク(:de:Erwin Planck 首相府長官)らはシュライヒャーに対し、ヒンデンブルク大統領にヒトラーを首相に任命しないよう最後通告を行い、拒絶された場合は軍事クーデターを起こすよう進言した。しかしシュライヒャーはそれを退けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オイゲン・オット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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