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オオトモヤスオミ : ウィキペディア日本語版
大友康匠[おおとも やすおみ]

大友 康匠(おおとも やすおみ、1934年1月14日 - 1995年1月16日)は、日本の絵本作家漫画家である〔''共同著作名義「ノンタン」絵本事件''東京地方裁判所、1998年3月30日付、日本ユニ著作権センター、2012年10月1日閲覧。〕。本名は大友 義康(おおとも よしやす)、漫画家時代は本名のほか、大友 よしやすおおとも よしやす大友 ヨシヤスオオトモ ヨシヤスとも名乗り、絵本作家時代は、おおとも やすおみオオトモ ヤスオミとも名乗った〔〔リサーチ 「おおともよしやす」、国立国会図書館、2012年10月1日閲覧。〕。「康臣」は表記の誤り〔〔。少女マンガ時代の『マリちゃん』シリーズ、絵本作家時代の『ノンタン』シリーズで知られる〔〔。
== 人物・来歴 ==
1934年(昭和9年)1月14日神奈川県横浜市に生まれる〔〔東光少年 、戦後日本少年少女雑誌データベース、寿限無、2012年10月1日閲覧。〕。
掲載号は不明であるが、1948年(昭和23年)12月 - 1951年(昭和26年)3月の期間に発行されていた『東光少年』(東光出版社)の「読者投稿漫画」に、十代の少年時代の大友が執筆して投稿した『ウサギミミスケ』が掲載され、金賞を獲得している〔。その後、中村書店で戦前に「ナカムラマンガシリーズ」を立ち上げた漫画家の大城のぼるに弟子入りする。
満19歳となった1953年(昭和28年)6月ころから、漫画家としてのキャリアを始めたとされるが〔、国立国会図書館蔵書によれば、満17歳を迎える1951年(昭和26年)には、中村書店から『珍宝島探険』(共著大城のぼる)や『アベコベ猛獣狩り』といった漫画をすでに出している〔。1952年(昭和27年)には、鶴書房から『フリード王子』等を上梓し、1954年(昭和29年)には、東京漫画出版社から、ギリシア神話ゴルゴーン」を主題にした名作漫画文庫22『ゴルゴンの首』等を出版している〔。講談社の『少女クラブ』、『少年クラブ』にも漫画を掲載している〔。1958年(昭和33年)には、『マリちゃん』シリーズをまとめた「オオトモヨシヤス選集」全3巻を中村書店から刊行している〔。同年、東映動画(現在の東映アニメーション)が製作した長篇アニメーション『白蛇伝』のコミカライズを大友が手がけており、中村書店から出版された同作の表紙・裏表紙には、同映画作品のスチル写真が使用されている〔オオトモ、表1・表4。〕。
1950年代末の時代、永田竹丸らとともに、豊島区椎名町(現在の同区南長崎)のトキワ荘に出入りしていたという〔吉村、p.84.〕。横山光輝とそのアシスタントだった岸本修と交流があり、1957年(昭和32年)5月、横山が『冒険王』5月号付録『闇におどる猫』に横山自身が自殺する話を描いた際、岸本とともに作品に登場している〔横山、p.5.ほか〕。
1962年(昭和37年) - 1964年(昭和39年)の時期に病気で入院し、その後の活動ペ一スは落ちたという〔。同門の漫画家・棚下照生のアシスタントをしていた〔〔週刊平凡 11(10) 、国立国会図書館、2012年10月2日閲覧。〕〔週刊ポスト 2(20)(39) 、国立国会図書館、2012年10月2日閲覧。〕1969年(昭和44年)ころ、清野幸子(のちのキヨノサチコ、1947年 - 2008年)に漫画の指導を始め、1970年(昭和45年)4月30日、清野と結婚する〔。結婚後はアシスタントを退職、『たのしい幼稚園』(講談社)の学習もののカットを受注して描いていた〔。
1975年(昭和50年)4月 - 5月ころ、清野と共同で偕成社に子ギツネを主人公とした絵本『あかんべきつね』の企画を持ち込み、それが子ねこの「ノンタン」に変更になり、1976年(昭和51年)8月に『ノンタンぶらんこのせて』および『ノンタンおやすみなさい』、同年10月には、原案企画をもとにした『あかんベノンタン』が刊行された〔。1977年(昭和52年)4月、清野と共同で執筆したバックステージもの『二人でノンタン』が文藝春秋から刊行される〔。同年7月23日、長女が誕生する〔。
1982年(昭和57年)4月2日、有限会社大友を設立する〔。同年5月6日、清野と出演したNHKのテレビ番組が放送される〔。
1984年(昭和59年)6月、塩野米松および清野と共同執筆による『おみちゃん さっちゃんのこども え じてん』が求龍堂から刊行される〔。1984年(昭和59年)11月23日、別居に至り、翌1985年(昭和60年)5月14日、清野と協議離婚する〔。以降、共同執筆が不可能になる〔。1990年(平成2年)4月10日、清野が、大友らを相手に「ノンタン」絵本についての著作権をめぐる訴訟を起こす〔。
1995年(平成7年)1月16日、死去した〔。満61歳没。没後、離婚成立直前である1985年4月26日付の遺言書が発見された〔。訴訟については、大友の没後、1998年(平成10年)3月30日に東京地方裁判所で判決が降り(裁判長西田美昭)〔、1999年(平成11年)11月17日、東京高等裁判所で結審する(裁判長田中康久)〔''共同著作名義「ノンタン」絵本事件 (2)''東京高等裁判所、1999年11月17日付、日本ユニ著作権センター、2012年10月1日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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