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オグ・マンディーノ : ウィキペディア日本語版
オグ・マンディーノ
オグ・マンディーノOg Mandino 1923年12月12日 - 1996年9月3日)は、米国自己啓発作家小説家、講演家。「世界中で最も多くの読者をもつ自己啓発書作家」と呼ばれたベストセラー作家。"セールスマンのグル"などとも形容される。
高校卒業後の4年間を空軍で活躍したのち、生命保険会社に勤務した。その後、シカゴの「サクセス・アンリミテッド・マガジン」の編集長となり、1976年まで同社代表を務めた。そのかたわら、1968年に『地上最強の商人』を執筆し、作家としてデビューした。以後、『この世で一番の奇跡』など続々とベストセラーを発表し、著書は世界22か国で3600万部を売り上げた。
==生涯==
1923年12月12日、米国マサチューセッツ州ボストン市ボストン生まれ。両親はともに移民で、父はイタリア系、母はアイルランド系。 本名はAugustine Anthony Mandino。ハイスクール時代の学校新聞で「AUG」と署名した。書いてから変えたいと思い、発音どおり「OG」と綴りその後習慣になった。このことは「この世で一番の奇跡」で本人が語っている。
;母の死、進学断念、軍隊生活、作家挫折、保険販売の仕事、生活破綻
マンディーノは母親から作家になることを勧められていた。高校で学校新聞の編集者になり、ミズーリ大学ジャーナリズムを学ぶことを目指して準備をする。
1940年の夏、まもなく大学入学という時、昼食をつくっている最中の母親が死去。この悲しい出来事が大学進学の夢、そして作家への夢を消してしまう。
マンディーノは、大学に進学するかわりに、製紙工場での勤務を始める。
1942年アメリカ合衆国陸軍航空師団に入隊。第二次世界大戦中にB-24ドイツに30回特務飛行をする。メダルをいくつかもらい、無事母国に戻る。
軍隊時代に溜めたお金で、タイムズ・スクエアの少し外れのアパートを借り、作家としての実力を試すが、相手にされず。お金が底をつく。
生まれ故郷のニューイングランドに戻り、生命保険の販売の職につく。美しい女性との結婚、娘の誕生。
しかし、生き地獄のような10年。借金、厳しき現状、時が過ぎると同時に、深い穴に落ち込む。現実逃避のためにアルコールの量が増える。妻子は去り、仕事、家をも失う。
古い車(フォード)に数少ない服を投げ入れ、国内を放浪。安酒を買う僅かなお金のために、雇ってくれるならどんな仕事でもつく。
クリーブランドでの初冬、質屋のウィンドウには29ドルのピストル
:「この銃が全てを解決してくれる。・・・それで鏡の中の惨めな敗北者を2度と見なくてもすむ」
自殺が脳裏をよぎる。
しかし、ピストルは買わず、気づいた時には、図書館の前。
;人生の転機
その朝、ノーマン・ヴィンセント・ピール、ナポレオン・ヒル、エルバート・ハバード、マックスウェル・モルツ、ドロシー・ブランド・パーシー・ホワイトニング、ラッセル・コーンウェルなど、成功哲学の"偉大な巨匠"の本を読み始める。この朝を境に、マンディーノの人生は変わり始めた。
W・クレメント・ストーンの本と出会い、触発される。 彼の下で働きたくなり、アメリカ・コンバイン保険会社を探し、ボストン支社にて職につく。
クレメント・ストーンを探す最中にベティと出会い、結婚(1957年12月9日)。
一年足らずで優秀な業績をあげ、販売部長に昇進。 最初の担当地区は、メイン州北部。
実績を認められ,コンバイン社のシカゴの販売促進部へ。そこで保険販売の意欲促進に関する資料の作成に一年ほど携わる。
その後「サクセスアンリミテッド」誌へ。
ある月、ベン・ホーガン交通事故から回復し、プロゴルファーとして勇敢にカムバック)の記事を書き、雑誌に掲載。ニューヨークの出版社から感銘の手紙。その中には、「本を書いたなら是非見せてもらいたい。」との言葉も。
その1年半後『地上最強の商人』出版。
1965年、サクセス・アンリミテッド・マガジン社編集長。
1972年1976年、同社代表。
1976年から著作・講演を中心に活動。
1983年、全国講演者協会から講演者に対する最高の栄誉であるCPAE賞を授けられる。
1983年、ナポレオン・ヒル・ゴールドメダル賞の初受賞者となる。
1984年、"国際的な演説家の殿堂"入りを果たす(レッド・モトレイ、リチャード・デヴォス、ビル・ゴーヴ、カヴェット・ロバート、ノーマン・ヴィンセント・ピールなどについで14番目)
1989年3月3日、「オグ・マンディーノの日」アリゾナ市にて定められる。
70歳誕生日前、定期検診にて前立腺が見つかる。手術、トラブル、心臓切開手術。
1995年春、心内膜炎にて再入院。
1996年9月3日 急逝。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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