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オケオ (、) は、ベトナムのメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン(Thoại Sơn)県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮はトアイソン県を構成する行政区画である。なお、クメール語で「オ・ケオ」は「水晶の運河」を意味する。 オケオには1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。学問用語の「オケオ文化」は、この地で発掘された遺物によって特徴づけられる、古代のメコンデルタにおける文明の物質的痕跡(物質文化の項を参照)を指す。 == 遺跡群とオケオ文化の広がり == オケオの発掘は、フランスの考古学者が航空写真から遺跡を見い出した後、1942年の2月10日に開始された。最初の発掘を率いたのはである。遺跡群の範囲は450ヘクタールに及んでいた。 オケオは、メコンデルタの低地平原を縦横に結ぶ古代の運河ネットワークの中に位置しており、オケオと海の港をつなぐ運河のひとつは、北北西に約67km離れたまで繋がっていた。オケオは運河によって南北に分断され、更に4つの運河が東西に走り、その運河はメコンデルタ地域にいまでも見られる高床式の水上住宅に囲まれていたと思われる〔Paul Lévy, "Recent Archaeological Researches by the École Français d’Extrême Orient, French Indo-China, 1940–1945", in Kalidas Nag (ed.), ''Sir William Jones: Bicentenary of his Birth Commemoration Volume, 1746–1946'', Calcutta, Royal Asiatic Society of Bengal, 1948, pp.118-19; paraphrased in R. C. Majumdar, ''Ancient Indian colonisation in South-East Asia,'' Baroda, B.J. : Sandesara, 1963, pp.12-13.〕。 オケオの文化を反映した遺跡群はベトナム南部全域に広がっているが、特にホーチミン市より南西のメコンデルタ地域に集中している。現在のオケオ市鎮から離れた場所での最も重要な遺跡群は、メコン川の東の流れ(ソンティエン)に位置する、ドンタップ省カオライン市の東、同省タップムオイ県(Tháp Muời)であり、ここでは6世紀のサンスクリット語の碑文が発見されている。 また、1958年に撮影された航空写真によって、扶南国時代にはメコン川の支流が、タケオの周辺からタイランド湾に流れ込んでいたことが証明された。タケオは古くは海岸に面していたが、後に堆積によって海岸線と離されていったと見られている。扶南国の時代、オケオは運河でタケオと繋がっており、オケオもタイランド湾の深部へつながる経路を持っていたことになる〔Aulis Lind, “Ancient canals and environments of the Mekong Delta, Vietnam”, ''Journal of Geography,'' vol.79, no.2, February 1980, pp.74-75.〕。また、航空写真によって明らかになったこのメコン川の河口部は、プトレマイオスが「ゲオグラフィア」で言及した、メコン川の西の支流(プトレマイオスはコッティアリス(Cottiaris)と呼んだ)に属する河口分流の「シーナス(Saenus)」である可能性があるとされる〔Identified as such by C. E. Gerini, ''Researches on Ptolemy's Geography of Eastern Asia; Asiatic Society Monographs,'' Vol. I, 1909, pp.193, 775 and Albert Herrmann, „Die alten Verkehrswege zwischen Indien und Süd-China nach Ptolemäus“, ''Zeitschrift der Gesellschaft für Erdkunde zu Berlin,'' 1913, pp.771-787, p.784. English translation at: 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オケオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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