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オシオス・ルカス修道院(希:)は、ギリシャ共和国中央ギリシャ地方ヴィオティア県ディストモ(デルフィ近郊)のヘリコン山の麓にある、ギリシャ正教:正教会の修道院である。10世紀に設立され、中期ビザンティン建築の傑作と言われる聖堂と、11世紀に作成されたモザイクが残る。 1990年、他の2つの修道院とともにユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ダフニ修道院、オシオス・ルカス修道院、ヒオス島のネア・モニ修道院」)。 ==歴史== オシオス・ルカスは、克肖者ルカスによって10世紀前半に設立された修道院である。ルカスは953年に死んだが、生前に東ローマ帝国の皇帝「ロマノス」によるクレタ島の征服を予言した。彼の予言はロマノス1世レカペノスを指したようであるが、クレタ島の征服は961年にロマノス2世によって行われ、これによってルカスへの崇敬が高まることになった。クレタ島制圧は、東ローマ帝国にとってエーゲ海制海権の奪回という重要な意味を持っており、バルカン半島沿岸地域におけるアラブ人の影響は、これによって著しく改善された。この時期のバルカン半島の苦悩については、歴史家スティリスによって記述された、ルカスの「聖人伝(ビオス)」に詳しい。 「聖人伝」によれば、961年から966年の間に、修道院にハギア・バルバラ聖堂が建設された。ハギア・バルバラ聖堂は、現在、中央聖堂と並んで建つ生神女聖堂(テオトコス聖堂)に比定されており、これが事実であるとすれば、ギリシャ共和国で最も早い時期の中期ビザンティン建築ということになる。ハギア・バルバラ聖堂が、後に、ロマノス2世の(後にニケフォロス2世フォカスの)妃テオファノによって増築か改築されるかして、生神女聖堂になったと思われる。 11世紀初期にブルガリア帝国が壊滅し、バルカン半島が政治的な安定を得るようになると、克肖者ルカスの不朽体から奇跡の香油が出るとして、オシオス・ルカスはバルカン半島有数の巡礼地となった。これにより、多額の寄付が寄せられ、少なくとも1048年には、克肖者ルカスの墓のあった場所に中央聖堂が建設された。これは、奇跡的を求める巡礼者に対して、墓の端のそばで眠ることを奨励したためである。中央ドームは、1593年の地震によって崩落し、その後再建された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オシオス・ルカス修道院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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