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『オジャマンないと!』は、1984年10月4日から1994年10月8日まで名古屋テレビで放送されたバラエティ番組。 == 概要 == 高原兄ほか様々なタレントたちが出演していた深夜番組で、彼らが毎回一般からの参加者たちとともに様々なバラエティ企画を遂行していた。番組のコンセプトは「名古屋の夜の人々の心の中にオジャマしてみよう」で、それが番組タイトルの由来になっている。 当初はオープニングテーマの歌詞にあるように、トロピカルな装飾を施した屋台(通称「オジャマン屋台」)が名古屋市内各地を行くという内容だった。また、その当時は高原が毎回その日の企画内容に合わせて作詞・作曲する歌を出演者全員で合唱していた。1989年2月25日放送分では、公募で集まった一般人たちがミュージカルに挑戦。限られた3時間の中で歌 → 振り付け → 芝居と進むレッスンを経て真剣になっていく出演者たちの表情が感動を呼び、番組は第37回日本民間放送連盟賞の娯楽番組部門で優秀賞を受賞した。また、番組は事前収録を基本としていたが、1994年4月9日放送分では名古屋テレビ本社西隣の東別院(真宗大谷派名古屋別院)で視聴者参加型のオークション企画を行い、その模様を生放送していたこともある。 この番組のスタッフと放送作家の萩原芳樹は番組を立ち上げるにあたり、名古屋出身タレントの起用を念頭に出演オファーを引き受けてくれる人物を探していたが、その中で高原が候補に浮かび上がった。高原は富山県出身者であるが、名古屋商科大学に通っていたという理由から候補に挙がった。また、高原は当時ニッポン放送のラジオ番組『ヤングパラダイス』のパーソナリティを降ろされたばかりで、作曲家に転向しようかと考えていたところだった。消極的ではあったが高原はこのオファーを引き受け、以後もタレント活動を続けるようになった〔。 高原の結婚披露宴を収録し放送した回において、披露宴列席者の一人であった島田紳助がスピーチに立った際、当番組の放送VTRをビートたけしが調達しており、全国ネットで放送されているたけしの冠番組の企画内容に、当番組が大きな影響を与えているというエピソードが語られた。 番組の終了後、高原は後継番組の『王者マンへの道』にも引き続き出演した。また、この番組の実験的な手法は、後に名古屋テレビが製作した『さまぁ〜ず げりらっパ』へと受け継がれた。神奈川県横浜市にある放送ライブラリーには、この番組の記録映像が2本保存されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オジャマンないと!」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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