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オストフロント作戦 : ウィキペディア日本語版
北岬沖海戦[きたみさきおきかいせん]

北岬沖海戦(きたみさきおきかいせん、Battle of North Cape)は、第二次世界大戦中の1943年12月26日に発生したドイツ海軍イギリス海軍との間で戦われた海戦である。北岬とはノルウェーの最北端に近い岬の英語名の和訳で、一般にノールカップと呼ばれる。
== 背景 ==
1942年年末のレーゲンボーゲン作戦の失敗により、ドイツ海軍の水上部隊には外洋での艦隊決戦はおろか、局地的な襲撃作戦にも十分な戦力を有していないことが明らかとなった。この事態にアドルフ・ヒトラーは海軍主力をUボートへ全面的に切り替え、大型艦を全て解体させる命令をだした。海軍司令長官エーリヒ・レーダー元帥はそれに反対して辞任を表明した。新司令長官にはUボート部隊を指揮していたカール・デーニッツ元帥が補されたが、デーニッツは潜水艦出身者でありながら、残存艦艇にはいまだ戦略価値があると見ていた。まず1943年2月8日、主力艦を浮き砲台として扱うことを提案し即時解体を押しとどめることに成功、次いで2月26日ヴォルフスシャンツェでヒトラーに直訴することによって主力艦の廃艦計画を全面的に撤回させた。オスカー・クメッツ大将指揮する戦艦ティルピッツ戦艦シャルンホルストを主力とした戦闘群は北ノルウェーに配置され、イギリスからソ連へ向かう護送船団を襲撃する任務を課せられた。
その後襲撃に適した船団が北極海を通過することはなかったが、9月6日にティルピッツ、シャルンホルスト、駆逐艦9隻と陸軍第345擲弾兵連隊を基幹とした戦闘団(一個大隊規模)がスピッツベルゲン島にある連合軍基地を攻撃して砲台、物資集積所や各種施設の破壊に成功し貴重な勝利を飾った。しかし喜びもつかの間9月22日に英海軍は特殊潜航艇X艇を投入、船底に2000kgもの爆薬を仕掛けられ、ティルピッツは航行不能となった。残る北ノルウェーの行動可能な主力艦はシャルンホルスト1隻となった。
11月に入りクメッツ大将は病気療養で艦を去った。戦闘群の指揮はエーリヒ・バイ少将が引き継いだ。
唯一生き残った大型艦であるシャルンホルストをいかに投入するかについてはドイツ海軍内でも検討が行われていたが積極的な戦場投入を望む声はなかった。なぜなら冬が近づくにつれ短くなる一方の日照時間と悪天候を考え合わせると、海戦は薄明または暗闇の状況下行われる可能性が高く戦艦の巨砲は特に遠距離では命中率が激減し、逆に数にまさるイギリス海軍の軽艦艇は闇を活かし中近距離まで接近して雷撃を行うことができたからである。
さらに他方面での戦局悪化から偵察任務を担いかつ協同して攻撃にもあたる航空機、Uボート部隊が相次いで引き抜かれ、11月17日にはそれまで戦闘群に配属されていた駆逐艦9隻のうち4隻が南へ移動させられてしまった。
12月19日にデーニッツはヒトラーへの報告の中で、成功の見込みあればシャルンホルストを中心とした艦隊で船団攻撃を行う旨を述べている。しかし実際のところは自艦隊の戦力も敵情把握も援護兵力も何もかも不十分なまま海戦を始めようとしていたのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北岬沖海戦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Operation Ostfront 」があります。



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