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オスマン帝国領ハンガリーでは、1541年から1699年までオスマン帝国の支配を受け、今日ではハンガリーに属する地域について記す。 ==歴史== 16世紀までに、オスマン帝国の勢力が徐々に強まり、バルカン半島を占領していく間、ハンガリー王国は中世後期の農民暴動で弱体化していった。ラヨシュ2世時代(1516年 - 1526年)、国内の衝突が貴族を二分していた。 1521年のベオグラード陥落後、スレイマン1世(在位:1520年 - 1566年)は、弱体化したハンガリー王国に攻撃を加えることをためらわず、10万人の敵に対して2万6千人と数に劣る上に指揮も拙いハンガリー軍は、1526年8月29日にモハーチの戦いで敗れた。スレイマンがこのようにしてハンガリーに影響を及ぼすようになる一方、戦死したラヨシュ2世の後継のハンガリー王位を巡って、スレイマン1世に半従属状態となっていたサポヤイ・ヤーノシュと、スレイマンの敵であるオーストリア大公(のちの神聖ローマ皇帝)フェルディナントが相争った。スレイマンはさらに進撃してオーストリア軍を壊滅させようと企図し、1529年にはウィーンを包囲(第一次ウィーン包囲)したが、冬の到来で退却を余儀なくされ、ウィーン攻略は失敗に終った。ハンガリー王位は、1540年までサポヤイ・ヤーノシュとフェルディナントの間で争われた。1541年にオスマン帝国軍によってブダ(現在のブダペストの一部)が制圧された後、ハンガリーの西部と北部はハプスブルク家を王として承認してハプスブルク領ハンガリー王国となり、中央部と南部はオスマン帝国軍が占領しオスマン帝国領ハンガリーとなり、東部はサポヤイの息子がの名のもとに支配し、1570年以後トランシルヴァニア公国と呼ばれた。 オスマン帝国の統治時代、ハンガリーの平和は危ういものであった。ハプスブルク家はムスリムの侵略者から国土を解放する計画を推し進め、また仲介者の協力を得て対抗宗教改革を推進した。オスマン帝国は、1620年、さらに1683年の第二次ウィーン包囲では、オスマン帝国領ハンガリーを拠点として用い、神聖ローマ帝国と新教徒との間の対立を利用しようと試みた。 この頃、ハンガリーでは変化が起こり始めた。広大な国土は人口が希薄で、森林で覆われていた。氾濫原は沼地となっていった。占領者であるトルコ人たちの暮らしも不安定であった。冷酷な新しい主人から小作農が森や湿地へ逃げ、ゲリラ隊(Hajdú)を結成した。長く連なる国境沿いの砦を維持するため、ハンガリーからの歳入の多くは使い果たされてしまい、結局ハンガリーはオスマン帝国を消耗させることとなった。しかし、経済の一部は繁栄した。広大な未開地域に、南ドイツや北イタリアへと移されるウシを町が飼育した。数年で、輸出されたウシは500,000頭に達した。ワインはボヘミア、モラヴィア方面、オーストリア、ポーランドへ売買された。 しかし絶え間ない戦争の終わりには、トルコ人支配とハプスブルク家の抑圧が国土を荒廃させていた。 1683年の第二次ウィーン包囲で、カラ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン軍が、ヤン3世ソビエツキ指揮のポーランド=神聖ローマ帝国連合軍に敗退したことは、オスマン帝国の衰退の始まりを決定づける出来事となり、最終的にこの地域の力の均衡を揺るがすことになった。1699年に大トルコ戦争を終わらせたカルロヴィッツ条約の締結で、オスマン帝国はハンガリー王国から奪い取った領土のほぼ全てをハプスブルク家へ割譲した。この条約に伴い、ハプスブルク家はハンガリー王位を継承することとなった(それまでは旧ハンガリー王国の北部と西部であるハプスブルク領ハンガリー王国しか領有していなかった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オスマン帝国領ハンガリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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