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オスマン建築 : ウィキペディア日本語版
オスマン建築[おすまんけんちく]
オスマン建築Ottoman Architecture)は、14世紀から19世紀までのオスマン帝国の勢力下において見られる建築サファヴィー朝ペルシャ建築、ムガル朝インド建築とともに、イスラーム近代建築の一角を形成している。
それまでのイスラム建築よりも、論理性や幾何学的秩序を重んじる傾向が認められ、イスラーム世界(ダール・アル・イスラーム)の盟主となったスレイマン1世の時代には、他のイスラム建築にも西ヨーロッパの建築にも見られない独自の空間を形成した。また、末期に至るまで、東ローマ帝国の大聖堂であったアヤソフィアを例外として、他の建築様式からの影響をほとんど受けなかった。
ヨーロッパ列強国の干渉を受けるようになった18世紀末になると、ヨーロッパ化した貴族階級によってバロック建築ロココ建築の装飾を取り入れた住居建築が建てられるようになったが、このような混淆様式の住宅形式が現代の住居建築、特にフランク・ロイド・ライトに影響を与えたとする話もある〔J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p237〕。

==概説==
トルコ建築を大きく前期と後期とに分ける場合、その後半を占めるのがオスマン建築である。イスタンブルとその近郊都市に建設された巨大なモスク(現代トルコ語では、都市の街区や村の中心となる大型のモスクのことを、ペルシア語で「金曜礼拝モスク」を意味するマスジド・イ・ジャーミイに由来する、「ジャーミー(ジャーミイ)」という名詞で呼ぶ。以降モスクをジャーミーと表記する。)が印象的であるが、ジャーミーを中心としたマドラサ(メドレセ)、病院、救済施設を融合した複合施設であるキュッリイェといった建築群、キョシュクの集合体としての宮殿、そして住宅建築もオスマン建築を特徴づける建築物である。
オスマン帝国の建築の起原は、ルーム・セルジューク朝の建築とセルジューク朝のペルシャ建築からデザインを借用したもので、政治的な安定を得るまでは、独自の意匠は開拓されなかった。東ローマ帝国の建築(ビザンティン建築)については、その関係があまり明確ではないものの、少なくとも初期の段階においては、ほとんど影響を受けていない〔J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p218, p237。初期のオスマン建築の特徴であるスクィンチによって支えられるシングル・ドームと、交差軸イーワーン・モスクは、ともにセルジューク建築に遡る。石と煉瓦を交互に積層する壁はビザンティン建築に起源があるが、その採用方法はビザンティン建築とは異なる。しかし、イズニクにおいて、ビザンティン建築との関連を指摘する次のような論文もある。Similarities between Ottoman,Local and Byzantine architecture (PDF)〕。コンスタンティノポリスを征服して東地中海の覇者となり、壮麗者スレイマン1世のもとオスマン帝国が絶頂期を迎えると、オスマン建築はその意匠だけではなく、優れた社会施設や建築工学を開花させた。その代表的な建築が、16世紀の傑出した建築家ミマール・スィナンによって確立された帝室のジャーミーで、皇帝(トルコ語ではパーディシャーというが、日本では一般にはスルタンと呼ばれる)の名を持つ巨大で壮麗な建築が次々と建設された。スィナンはアヤソフィアの意匠と構造を参考にして、オスマン建築におけるジャーミーの様式を決定付けるなど、アヤソフィアから多大な影響を受けたがアヤ・ソフィアはビザンツ建築の中でも特殊なのものであり他の一般的なビザンティン建築は、模倣の対象としてではなく、想像力をかき立てるものとして利用された〔N.ペヴスナー編『世界建築事典』p306。オスマン帝国においてアヤソフィアは常に賞賛され続け、建築家スィナンはいくつかの作品については確実に自らの建築の源泉としていると考えられる。〕。しかし、アヤソフィア以外のビザンティン建築とオスマン建築の関連はかならずしも明確ではなく、実際に、スィナンもその建築においてアヤソフィアの構成を借用しながら、当然ながら他のビザンツ建築にみられる一般的なビザンツ的要素をことごとく排除した〔 A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p355。〕。
16世紀以降、オスマン帝国は緩やかに衰退していくが、スィナン没後のオスマン建築もまた衰退し、その意匠は緊張感の欠けるものとなる。やがてジャーミーに代わり、スルタンや有力政治家の住居、邸宅の建築が盛んになり、ボスポラス海峡沿岸には豪華な邸宅建築が並ぶようになった。オスマン帝国末期には、ヨーロッパ列強の影響力を強く受けるようになり、アルメニア正教徒バルヤン一族によってヨーロッパ風の宮殿建築が建設されるようになった。しかし、意匠的にはバロック建築を参照しているものの、その平面計画はオスマン伝統のものであり、オスマン建築はその独自性を最後まで失うことはなかった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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