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オスマン時代のブルガリア : ウィキペディア日本語版
オスマン時代のブルガリア[おすまんじだいのぶるがりあ]

オスマン時代のブルガリアでは、14世紀末に第二次ブルガリア帝国オスマン帝国によって征服されてから、18世紀末の民族再生運動(ブルガリア民族覚醒)直前までの時期のブルガリアについて述べる。
== 歴史 ==

オスマン帝国支配下のブルガリアはルメリアに区画され、ベイレルベイ(総督)によって統治されていた。オスマン帝国のブルガリア支配は抑圧と暴政が敷かれた印象を持たれ、ブルガリアが他のヨーロッパのキリスト教国とは異なる進路を辿っていたことを象徴する時代だと見なされている〔Michael G. Kort, ''The Handbook of the New Eastern Europe'', (Twenty First Century Books, 2001), 116頁〕

。しかし、ブルガリアが常に抑圧を受けていたという観点には異論が唱えられており、オスマン帝国による暴力的な行為の多くは反乱への対処の際に生じたものだと説明もされている〔クランプトン『ブルガリアの歴史』、43頁〕。抑圧、民族の歴史的発展の停滞という印象は民族再生運動が本格化する19世紀以降に作られたものであり、長期にわたるオスマン支配を一括りにしたものだと考えられている〔佐原「オスマン支配の時代」『バルカン史』、130頁〕。オスマン時代初期のバルカン半島には経済発展が見られ、多くの非イスラム教徒もオスマンの支配を受容していた〔。
クロアチアボスニアといった他のバルカン諸国と比べて、オスマン帝国の首都イスタンブルの近くに位置するブルガリアは西欧の影響を受けにくかった〔柴『図説バルカンの歴史』増補改訂新版、85頁〕。要衝に住むブルガリア人には重税が課され、中央政府の政治腐敗の影響を直接受けていた〔ジェラヴィチ『バルカン史』第2版、65頁〕。ギリシャ人やセルビア人と異なり、困窮したブルガリア人が人跡稀な地への逃亡という手段をとることは難しかった〔。ブルガリア人の中にはワラキアモルダヴィアオーストリアロシアに亡命する者もいた〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、130頁〕。また、オスマン帝国の方針により、アナトリア半島に居住していたイスラム教徒の遊牧民がブルガリアに移住させられ、イスラーム化、トルコ化が試みられた〔。
第二次ブルガリア帝国の首都タルノヴォ、皇帝イヴァン・スラツィミルが支配するヴィディンを征服したオスマン帝国は、1396年にブルガリアを直轄地に組み入れた。第二次ブルガリア帝国とヴィディン帝国の滅亡後もブルガリアではオスマン帝国に対する抗戦が続き、1404年にブルガリア皇帝イヴァン・シシュマンの遺児フルジンとイヴァン・スラツィミルの遺児コンスタンティンが指導する蜂起が起きる。バヤズィト1世死後の内争に乗じた2人の反乱はブルガリア人農民だけでなくワラキア、セルビアの支援も受け、多くの村が解放される〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、139頁〕。しかし、オスマン軍の反撃を受け、モラヴァ川の渓谷沿いとテムスカ川での戦闘で反乱軍は敗北する。敗北したフルジンはハンガリー王国に亡命し、1444年ハンガリー王ウラースロー1世フニャディ・ヤーノシュらがバルカン半島のオスマン領に攻勢を仕掛けたとき、フルジンも遠征に参加した〔。フルジン以外のブルガリア人も戦闘に参加し、あるいは食料や物資を提供してハンガリー軍を支援した。
1598年にタルノヴォ地方で、ウィーンローマの教唆によるドゥブロヴニクの商人が指導する蜂起が発生する〔クランプトン『ブルガリアの歴史』、59-60頁〕。蜂起にはブルガリア各地の高位聖職者が参加し、シシュマン朝の後裔を自称するシシュマン3世がブルガリア皇帝に擁立された。しかし、同盟者であるワラキアのミハイ勇敢公が撤退し、オーストリアからも援軍は送られず、残された民衆はオスマン政府から報復を受けた〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、140-141頁〕。1686年にはロシアから派遣される援軍を期待した反乱がタルノヴォで発生し、イヴァン・スラツィミルの後裔と考えられているロスティスラフ・スラツィミロヴィチが反乱軍の象徴とされた〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、141頁〕。反乱は失敗し、参加した多数の兵士は死亡し、スラツィミロヴィチは蜂起が終息した3年後にモスクワに帰還する〔。1688年にはオーストリア軍のベオグラード占領に鼓舞される形で、ブルガリア北西部のチプロフツィで蜂起が起きた(チプロフツィ蜂起)〔。
また、ソフィア付近の山岳地帯では、ハイドゥティンと呼ばれる匪賊がオスマン帝国の支配に抵抗していた。経済的に困窮した農民はハイドゥティンに身を落とし、隊商やオスマンの官吏、小部隊を襲撃した〔柴『図説バルカンの歴史』増補改訂新版、58頁〕。1595年に2,000人のハイドゥティンがセルビア人部隊と協力してソフィアを攻撃した。ハイドゥティンたちの活躍は叙情詩にされ、民衆たちに伝えられる〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、145頁〕。
18世紀に入ると、ロシアが自国の解放者になるというブルガリア人の期待がより高まり、1768年から1774年にかけての露土戦争には陸軍中佐コラジン率いるブルガリアの義勇兵がロシア軍に加わった〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、141-142頁〕。1787年から1791年にかけての露土戦争、ロシアの勝利によって結ばれたヤッシーの講和により、ブルガリア独立の気運はより高まる〔ディミトロフ、イスーソフ、ショポフ『ブルガリア』1、142頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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