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オチル・ボラト : ウィキペディア日本語版
オチル・ボラト
オチル・ボラト(、、1490年 - ?〔『蒙古源流』の記載に拠る(岡田2004,239頁)〕)とは、モンゴル大ハーンであるバト・モンケ(ダヤン・ハーン)の息子の一人。『アルタン・ハーン伝』ではウデ・バラト(üdebalad)とも表記され、明代の漢文史料では「阿赤頼台吉」と記されている〔吉田1998,232頁〕。
== 概要 ==
ダヤン・ハーンとその正妻マンドフイ・ハトンの間の息子として生まれた。ダヤン・ハーンの五男と見られ、『蒙古源流』ではアルチュ・ボラトと双子で生まれたとも記される〔モンゴル語史料の記述に従えば、マンドフイ・ハトンは3組もしくは4組の双子を続けて出産したことになるため、双子で生まれたというのは疑問視されている(森川1988,2頁)〕。『蒙古源流』によるとオチル・ボラトとアルチュ・ボラトが生まれそうな頃、オイラトの襲撃があったが、フンギラトのエセレイ大夫、ハチンのジフイ・ダルハン、バルガチンのバヤン・ボケ、アストのバト・ボラトの助けによって無事逃れ、双子を産むことができたという〔岡田2004,225頁〕。
オチル・ボラトはダヤン・ハーンよりチャハル・トゥメンのオトクの一つであるケシクテンを分封された。オチル・ボラトの子孫を戴くケシクテン部はチャハル・ハーン家が滅亡した後も存続し、清朝の支配下に入ってジョーウダ盟ケシクテン旗とされた。現代のヘシグテン旗はケシクテン部、ケシクテン旗の直接の後身となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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