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板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日 - )は、日本の元プロ野球選手・野球解説者・タレント・司会者・俳優・実業家。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)。「坂東英二」〔倉田喜弘・藤波隆之 編『日本芸能人名事典』(1995年7月10日、初版第1刷、三省堂発行。コード:ISBN 978-4-385-15447-3)P775〕〔『オリコン芸能人事典』では、「板東英二」「坂東英二」両表記ごとのプロフィールが配信されている。〕は誤記。満州国(現在の中国東北部)虎林生まれ〔コトバンクのプロフィール(『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の解説)。『プロ野球12球団全選手百科名鑑』『12球団全選手百科名鑑』シリーズ各年版(参考:'98、2000、2002 - 2009)。〕、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市)育ち。法華経。既婚、2女あり。 プロ野球選手としては、中日ドラゴンズに所属していた。タレントとしては、個人事務所のオフィスメイ・ワーク(メイ・ワーク、メイワーク〔『TVスター名鑑』1992年発行分に掲載されたプロフィール〕)に所属〔〔(? - 2013年)し社長も務めていた〔『12球団全選手カラー百科名鑑2004』(『ホームラン』2004年3月号増刊)P234〕(2000年から〔〔2000年6月当時のスターダストプロモーション公式サイト内顔写真付きタレントリスト - インターネット・アーカイブ2000年6月20日付保存キャッシュ〕2012年までは〔2002年頃より、スターダストプロモーション公式サイト内全所属タレントリストにも掲載。参考リンク…2002年10月当時のリスト (インターネット・アーカイブ2002年10月15日付保存キャッシュ) 2012年まで掲載(当時の全所属タレントリスト …インターネット・アーカイブ2012年1月5日付保存キャッシュ)〕、スターダストプロモーションと提携〔〔〔)。2014年1月16日からは、吉本興業(厳密には、子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属している(なお、1990年代から2000年代頃にも、吉本興業所属または専属タレントと紹介するメディアはあった〔参考:『プロ野球12球団全選手百科名鑑』シリーズ各年版掲載の野球解説者名鑑(「」内は引用部分) * 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊)P200…「いまや吉本興業所属の大タレント」 * 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(同2000年3月号増刊)P213…「吉本専属でタレント兼業」 * 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』(同2003年3月号増刊)P236…「続々とMLBの長谷川など専属になっている球界からの吉本興業第1号大タレント」 〕が、この頃は所属していなかった〔1999年・2000年当時の吉本興業公式サイト内より、ハ行から始まる名前のタレント一覧からは、確認できない。以下、参考リンク。 * 芸人検索:ハ・バ・パ/タレント - インターネット・アーカイブ1999年11月12日付保存キャッシュ * 芸人検索:ハ・バ・パ/タレント - インターネット・アーカイブ2000年2月26日付保存キャッシュ 〕)。 == 来歴・人物 == 満州の虎林で生まれ、一家は間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市で高級料理店を経営していた〔鈴木俊彦『高校野球甲子園-名投手物語』(心交社、2008年8月)、16-21頁〕。4人兄弟の末っ子(姉2人、兄1人)。5歳で引き揚げ。福岡から神戸市板宿に移り、神戸市立妙法寺小学校に入学。入学式の1日だけ行った後、父の復員を知り、父の故郷である徳島県板野郡板東町に移り、当時あった板東俘虜収容所内の引き揚げ者用住宅で過ごす。父親の就業が不安定だった小中学校時代には困窮した生活を送り、食事にも事欠いた〔。板東中学校入学時に板東はバレーボール部に入り、養蚕農家の手伝いをして家計を助けた〔。中学2年の時に野球部の先輩から誘いを受けて入部し、遊撃手としてレギュラーを獲得する〔。3年に進級した板東は野球部のエースとして活躍し、中学時代に61連勝の記録を挙げた〔。 実際に生まれた日は「3月31日」であるが、高校2年の時に甲子園に出るため、引揚で長期間移動していたため就学が遅れたという理由で、裁判所で「4月5日」に変更。このエピソードは、自著「赤い手」にも書かれている。当時は、世間的にもこうした誕生日の変更が行われていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「板東英二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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