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武部 勤(たけべ つとむ、1941年5月1日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の元衆議院議員(8期)。社団法人日米平和・文化交流協会理事。一般財団法人東亜総研代表理事。公益財団法人全日本ボウリング協会会長。 農林水産大臣(第33代)、自由民主党幹事長(第39代)、衆議院議院運営委員長(第63代)を歴任した。 衆議院議員の武部新は息子。 == 来歴・人物 == 北海道斜里郡斜里町生まれ。北海道斜里高等学校卒業後、早稲田大学第二法学部(夜学)に進学。その後、3年次に進級する際に第一学部に転部し、1964年に早稲田大学第一法学部を卒業する。卒業後、三木派事務所に就職。 1971年、北海道議会議員選挙に網走管内選挙区から出馬し、初当選。以後当選4回。4期目の任期途中の1983年、道議を辞職し第37回衆議院議員総選挙に旧北海道5区から保守系無所属で出馬するが、落選。その後中曽根康弘派の幹部だった渡辺美智雄の知遇を受け、1986年の第38回衆議院議員総選挙に再び旧北海道5区から無所属で出馬。選挙戦では無所属ながら渡辺の後ろ盾もあり、初当選を果たした(当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・武村正義・杉浦正健・園田博之・中山成彬・谷津義男・新井将敬・石破茂・笹川堯・井出正一・村上誠一郎など)。当選後しばらくは無派閥を通していたが、渡辺が中曽根派の代替わりにより自ら派閥を率いるにあたり、渡辺派に入会した。 1994年、羽田内閣総辞職に伴う首班指名選挙において、自民・社会・さきがけ3党は日本社会党委員長の村山富市を擁立するが、元首相の中曽根や渡辺らは猛反発し、旧連立与党側が擁立した、自民党を離党して立候補した海部俊樹への投票を呼びかける。武部も党本部の決定に造反し、海部に投票した(決選投票で村山が海部を破る)。1995年、渡辺美智雄の死去を受け、同じ渡辺の側近であった山崎拓を派閥領袖にすべく、山崎派結成のために奔走する。 小選挙区比例代表並立制導入に伴い、第41回衆議院議員総選挙以降は北海道12区から出馬。なお北海道12区は全国で最も面積の広い選挙区である。 2000年、第2次森内閣不信任決議案に加藤紘一、山崎拓らが賛成票を投じる動き(所謂加藤の乱)が表面化した際、加藤や山崎の動向を率先して党内に触れ回り、森派会長の小泉純一郎を加藤派・山崎派の造反議員の中でも取り分け痛烈に非難し、この頃は反小泉の急先鋒であった。結局、野中広務や古賀誠らが党内の引き締めを図り、加藤らの造反劇は失敗に終わる。2001年自由民主党総裁選挙においても、山崎派の中では派閥を挙げての小泉純一郎支持の動きに最後まで反対したものの、結局派閥会長であり、小泉の盟友でもあった山崎の意向を汲み、小泉に投票した。第1次小泉内閣で農林水産大臣に就任し、初当選から15年目で初入閣。 2003年、衆議院議院運営委員長に就任。2004年9月、自由民主党幹事長に就任。党内でも武部の幹事長起用を予想した者は少なく、サプライズ人事であった。2005年10月の党役員人事でも幹事長に留任し、「偉大なるイエスマン」を自認した。第44回衆議院議員総選挙では選挙対策の先頭に立ち、郵政民営化法案の採決に造反した議員に党の公認を与えず、対立候補を送り込む選挙戦略を展開。総選挙後、2005年初当選組(小泉チルドレン)の教育係を務める。ポスト小泉をめぐる2006年自由民主党総裁選挙に出馬が取り沙汰されるも、不出馬(当選者は安倍晋三)。 幹事長退任後の2006年8月、ロシア・サンクトペテルブルクを訪問中に新人議員の育成を目的にした新たな議員グループを結成する意向を表明し、同年12月には新しい風を結成。なお、新しい風は純粋な派閥ではなく議員の集まりに過ぎず、武部も幹事長在任中以外は一貫して山崎派に籍を置いている。 2009年の第45回衆議院議員総選挙では北海道12区で民主党の松木謙公に初めて敗北を喫したが、重複立候補していた比例北海道ブロックで復活し、8選。 2012年、次の選挙には出馬せず、引退を表明。地盤は長男である武部新が引き継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武部勤」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tsutomu Takebe 」があります。 スポンサード リンク
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