|
ジャファル・オムラム・サルマン(、Jaffar Omran Salman, 1967年 - )は、イラク出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード。1994 FIFAワールドカップ・アジア最終予選の最終戦(日本戦)において、後半ロスタイムに同点ゴールを決め、日本のワールドカップ初出場を阻んだ(いわゆるドーハの悲劇)選手として知られる。 == 経歴 == オムラムは1982年からハイリ・フセインが監督を務めるユース年代のサッカースクールで指導を受け、1985年にに入団した〔。 1988年にが監督を務めるイラク代表に初招集され、同年6月に韓国で行われた大統領杯に出場〔。1989年に行われた1990 FIFAワールドカップ・アジア予選の代表メンバーに選出されたが、1次予選でカタール代表に1敗1分けと競り負けて敗退した〔。1990年、に監督が交代したが引き続き招集を受け、同年2月から3月にクウェートで行われたガルフカップの代表メンバーに選出された〔。 1990年、国内リーグ戦のアル・ラシード戦では国際的キーパーのを相手に2得点を決める活躍を見せ得点王争いに絡むなど、クラブの上位進出の原動力となった〔。一方、同年8月に湾岸戦争が勃発するとイラクは湾岸諸国からの反発に遭い、サッカー界は様々な国際大会から締め出された。オムラム自身も国際的な活躍の場を失い、1992年にアル・クウワ・アル・ジャウウィーヤへ移籍した〔。 1993年に行われた1994 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では大会途中に監督のが解任されアモ・ババに交代するアクシデントが発生したものの〔、代表チームのスーパーサブを務めると初戦の北朝鮮代表戦、第2戦の韓国代表戦、最終戦の日本代表戦の3試合に出場。日本戦でイラクは本大会出場が絶望的な状況になっていたが、オムラムは46分にモハメド・ジャベールとの交代で途中出場すると、1-2で迎えた後半ロスタイムにフセイン・カディムのセンタリングからヘディングシュートを決め2-2の同点とし引き分けた〔〔。この結果、日本はワールドカップ初出場を逃したが、一部の人々にとってはトラウマとはならなかったのか〔、彼やを日本へ招待した〔。 クラブレベルでは監督の下で1996-97シーズンにはリーグ、イラクFAカップ、スーパーカップ、の四冠獲得に貢献するなど好調なプレーを維持したが〔、1993年のワールドカップ最終予選以降、イラク代表に招集されることはなかった〔。1998年にヨルダンのクラブに移籍後、古巣のアル・ナフトへ移籍し現役を引退し〔、引退後はアル・クウワ・アル・ジャウウィーヤの下部組織の指導者を務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オムラム・サルマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|