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オラス=ベネディクト・ド・ソシュール(、1740年2月17日 – 1799年1月22日)はスイスの貴族で、アルプス山脈の山々を登破するとともにそこで地質学、気象学、化学などに関わる様々な学術的観測を行った自然科学者である〔 〕。1762年、22歳でジュネーヴ大学の哲学の教授に就任した。またしばしば近代登山の創始者ともみなされている。 == 生涯 == オラス・ド・ソシュールはジュネーヴに近いシェヌ=ブジュリーのコンシュ (Conches) に生まれた。 父ニコラ・ド・ソシュール (Nicolas de Saussure, 1709–1791) は農学者であり、オラスも植物学に興味を持っていたため大学卒業後にはアルプスの山々への調査旅行を企てることとなった。 しかし18世紀の多岐の知識にわたる教育を受けた彼は、1773年以降、植物学に留まらずアルプスにおける地質学や気象学、物理現象へも興味を向けるようになった。これは特にアルプスの降雪地域での地形学として結実し、山麓のシャモニーやツェルマットのような場所へ後の旅行者の興味を呼び寄せることとなった。 一般には登山という概念さえ希薄であった当時、1760年のシャモニーへの最初の滞在で、未踏峰であったモン・ブラン (4811 m) の初登頂に対して 20 ターラーの懸賞をつけた。1785年には彼自身がエギーユ・デュ・グーテ () を経るルートから登頂を試みたものの果たせずに終わっている。初登頂はグラン・ミュレ () を経たルートによって1786年にシャモニーの医師ミシェル・パカール () とポーターのジャック・バルマ () とによって達成され、翌1787年にはソシュール自身も多数の観測機器を持って登頂を果たし、山頂で沸点や雪の温度、脈拍などを測定した。 その他にもソシュールはアルプスの数多くの山を登破し、また峠など高地に滞在して学術的な観測を行った。モン・ブラン登頂以前の1774年にはレマン湖に近いシャブレ山塊 () のグラモン (, 2172 m) に登り、1776年にはモンブラン北方のビューエ (, 3096 m) に登頂した。 1778年にはグラモンに再登頂するとともに、グラン・サン・ベルナール峠に近いヴァルソレ氷河 () を調査した。 またモン・スニ峠東のロシュ・ミシェル (, 3423 m) に1780年に登頂した。 モン・ブラン登頂の翌年1788年には、モン・ブラン山塊のコル・デュ・ジェアン峠 (, 3371 m) において17日をかけた調査を行っている。1789年にはモンテ・ローザの東壁を観察するため、マクニャーガに近いピッツォ・ビアンコ () に登頂した。またモンテ・ローザ西のテオドゥル峠 (, 3322 m) をツェルマットへと初めて越えた。1792年にクライン・マッターホルン (Klein Matterhorn, 3883 m) へと登った際にも、この峠で3日をかけて観測を行った後、テオドゥルホルン (Theodulhorn, 3472 m) にも滞在している。 これらソシュールのアルプスへの7回の旅とその際の科学的観測はソシュール自身によって、『アルプス山脈の旅』のタイトルで四つ折判4巻からなる記録として1779年から1796年にかけて出版された〔, 1779–1796. このクォート判の他、1780–1796年出版の八つ折版8巻があり、科学的記述を除く部分は1834年に出版され以降しばしば の名を冠された。〕。 オラス・ド・ソシュールは1799年にジュネーヴで死去した。 オラス以降もソシュール家は数多くの学者を輩出しており、娘アルベルティーヌ・ネッカー・ド・ソシュール () は女子教育のパイオニアであり、また息子ニコラ=テオドール・ド・ソシュールは有機化学の卓越した研究者であった。 孫アンリ・ド・ソシュール () もまた昆虫学者として名声を得た。 著名な言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールはオラスの曾孫にあたる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オラス=ベネディクト・ド・ソシュール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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