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オランダ商館長江戸参府 : ウィキペディア日本語版
カピタン江戸参府[かぴたんえどさんぷ]
カピタン江戸参府(カピタンえどさんぷ、''Hofreis naar Yedo'')は、オランダ商館責任者である商館長=カピタンの、日蘭貿易「御礼」のための江戸への旅。「御礼参り」「拝礼」とも称される。
== 概要 ==
長崎のオランダ商館はオランダ東インド会社の日本支店であり、商館長であるカピタンは対日貿易の維持・発展を願って、貿易業務を終えた後の閑期に江戸へ参り、将軍と世子に対する謁見(拝礼)と献上物の呈上を行った。その際には、老中若年寄といった幕府の高官たちへも進物を贈った。カピタンの「御礼」に対し江戸幕府側は、貿易の許可・継続条件の「御条目(ごじょうもく)」5ヵ条の読み聞かせと「被下物(くだされもの)」の授与をもって返礼とした。
オランダ人の初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイクによる駿府での徳川家康との謁見であった。その後、オランダ商館が平戸に建設され、寛永10年(1633年)より毎年春1回に定例化するまで江戸参府は不定期に行われた。寛永18年(1641年)にオランダ商館が平戸から長崎の出島に移された後も参府は続けられ、寛政2年(1790年)に貿易半減に伴って4年に1回と改定された後、嘉永3年(1850年)にまで計166回行われた〔寛政2年までの参府は153回、その後の4年に1回になってからは13回。〕。なお、開国後の安政5年(1858年)にドンケル・クルチウスが行った参府はこれに含まれない。
参府の時期は、当初は前年の暮れに長崎を出発し、翌年の正月(旧暦正月)に江戸に到着して拝礼を行っていた。寛文元年(1661年)からは正月に長崎出島を出立し〔ケンペルの記述では「陰暦1月15日または16日が、毎年出発の日となっている」と書かれている。〕、3月朔日(太陽暦で4月上旬)または15日に拝礼をするのが慣例となった。長崎への帰還は5,6月頃で、所要日数は通常90日ほどであった。
一行の人員は、使節であるカピタンの他、オランダ人の随員は当初は書記や医師など3,4人いたが、後に書記官と医官が各1名ずつとなった。日本人は、長崎奉行所の役人から任命される正・副の検使〔オランダ人は検使を「ボンギョイ (bongoy, bongeoy) 」と呼んだ。〕、通弁や会計を担当する江戸番大通詞と江戸番小通詞、町使2人、書記2.3人、料理人2人、定部屋小使が数人、他に日雇頭や宰領頭などがおり、規定では総勢59人となっていた。見習いとして若年の通詞が従ったこともたびたびあった。しかし、様々な名目で一行の人数はそれ以上となることが多かった。江戸参府が4年に1回となった寛政2年以降は、参府休年には参府年の半分の量の献上物を運んで通詞が代参した。江戸番大通詞は、通常は年配者がその任に当たり、道中での金銭管理や他のあらゆる事柄に気を配り、カピタンの「遣銀(出費)」の出納管理も担当した。
「御条目〔「仰(おおせ)」「法令」「条例」などとも呼ばれた。〕」の読み聞かせは万治2年(1659年)から始まり、寛文元年に「新文」が加えられ、寛文6年(1666年)に例文のほかに「別の条約一章」を渡された。そして延宝元年(1673年)にさらに「新加の文」が追加され、以後、この条文が用いられるようになった。カピタンへの「被下物」は、明暦元年(1655年)に小袖30領を時服として下され、以後、小袖30領の拝領が通例となった。世子が下される分は、小袖20領であった。通詞にも小袖2領が下されたが、天和3年(1683年)に「銀10枚」になり、貞享2年(1685年)に「銀5枚」と変更され、以後は銀5枚となった。
江戸での滞在は半月から1ヵ月間に及ぶ場合があった。この期間に蘭癖の諸大名や、官医や天文方、陪臣の医師や民間の学者など大勢の日本人が訪問し、通詞を介してオランダ人と様々な情報交換をした。カピタンたちとの交流を望む人々以外にも、土産物を売り込みに来る「定式出入り商人」と呼ばれる指定商人たちも訪れた。
カピタンの参府旅行中は、商館員の1人留守居役に任命して権限を委譲し、朱印状を入れた漆塗りの箱と、東インド会社の秘密書類を入れた樟(くすのき)製の箱1個を預ける。カピタンが出島に帰還した後、留守居役は重要書類の入った箱や鍵、留守中の日記を渡し、留守中の出来事を報告した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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