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オリンパス・ペン(''Olympus Pen'' )は、オリンパスが製造・販売するカメラ、およびそのシリーズである。 1959年にハーフサイズカメラとして発売され、その後に派生機種・後継機種が発売されてシリーズ化された。後年には派生シリーズとして一眼レフカメラの「オリンパス・ペンF」シリーズが世に出ている。ペン・シリーズは普及型の「ペンEE3」が1986年まで生産され、長くオリンパスの大衆カメラ需要を担った。 さらに2009年には、本名称を冠したデジタルカメラのシリーズ(後述)も発売している。デジタルカメラ版は厳密にはフィルムカメラ版の派生・後継機種ではないが、フィルム版旧ペンシリーズと同コンセプトの元に、同シリーズを引き継いでいる〔公式サイトやパンフレットでも、デジタルカメラのシリーズのロゴには「Since 1959」との記載されているものがある〕。 2012年現在、現行の機種はデジタルカメラのシリーズのみとなり、フィルムカメラのシリーズは販売終了となっている。 == 概要 == === ペンと米谷美久 === 最初の「ペン」が世に出た経緯は、後年、オリンパスの取締役まで務めた技術者の米谷美久が、上司から「6000円で売れるカメラの開発」という課題を与えられたことに始まる。1958年7月1日から設計に着手した。 価格6000円は、当時の日本製カメラとしては相当な低価格設定であり、通常であれば大衆向け製品と割り切ってグレードの低いレンズに簡素なメカニズムの組み合わせとし、性能面ではそれなりに低い水準で妥協しなければならないところであった。だが米谷は、大衆向けカメラであっても安易な妥協設計を採るべきでないと考え、「ライカのサブカメラとして使える小型カメラ」という野心的コンセプトを打ち出した。 ドイツのエルンスト・ライツ社(現ライカ)は第二次世界大戦前から高性能な35mm版カメラの「ライカ」を製造販売し、世界的に35mm版カメラのベンチマークとしての地位を得ていたが、1954年には設計を一新した戦後型の革新作「ライカM3」を発売し、レンジファインダー型カメラの一つの完成形を示して、市場に衝撃を与えた。1950年代後期、各国のカメラメーカーは高級機・大衆機の別なく程度の差はあれどM3のメカニズムを研究、そのシステムを取り入れようとしていた。 米谷は1956年にオリンパスに入社し、1958年当時は研修を終えて間もない新人技術者であった。しかし、元々写真愛好趣味が昂じてプロのカメラ技術者となった身でカメラのメカニズムには精通しており、また実家は資産家で、自身のプライベートではライカを愛用していたのである。彼の見識が、ユニークな小型カメラの開発に生かされることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オリンパス・ペン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Olympus Pen 」があります。 スポンサード リンク
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