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オリンピア・アスンシオン : ウィキペディア日本語版
オリンピア・アスンシオン

クルブ・オリンピア()は、パラグアイの首都アスンシオンに拠点を置くスポーツクラブである。都市名を付けてオリンピア・アスンシオンと呼ばれることも多い。様々な競技チームを所有するが、もっとも重要な競技チームはサッカーチームとバスケットボールチームであり、特にサッカーチームがよく知られているため、この項ではサッカーチームを中心に記述する。
1902年7月25日、オランダ人体育教師のウィレム・パーツらによってパラグアイ初のサッカークラブとして設立された。プリメーラ・ディビシオンでは39回優勝しており、ライバルのセロ・ポルテーニョ(27回)を大きく引き離してパラグアイ最多である。1978年シーズンから1983年シーズンまでのリーグ戦6連覇はリーグの最多連覇記録である。南米サッカー連盟 (CONMEBOL) の公式大会での優勝経験があるパラグアイ唯一のクラブである。コパ・リベルタドーレスでは3回、インターコンチネンタルカップでは1回優勝しており、国際大会では計8個のタイトルを獲得している。1979年には国内リーグ、コパ・リベルタドーレス、コパ・インテルアメリカーナ、インターコンチネンタルカップすべてで優勝する4冠を達成した。国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は「大陸別20世紀のクラブランキング」でオリンピアを南米第5位に選出しており、国際サッカー連盟 (FIFA) はオリンピアを「クラシッククラブ」のひとつに選出している。
== 歴史 ==

=== クラブ創設とアマチュア時代 (1902-1934) ===
オリンピアはパラグアイ最古のサッカークラブである。1902年7月25日、オランダ人体育教師のウィレム・パーツとその教え子のパラグアイ人たち〔シーラ・ゴドイ、S・パスクアル、ホセ・E・トーレス、グスタボ・M・クロバット、エクトル・カバニャス、フアン・ロディ、アントニオ・ペドラーサ、ルイス・マレコス、フアン・マーラ、ヘナーロ・グティエレス・ジェグロス〕によって設立された。ダウンタウンのアサーラ通りとインデペンデンシア・ナシオナル通り角にあるフアン・ロディの家で設立文が書かれ、クラブの名称として「パラグアイ」、「エスパルタ」、「オリンピア」の3つの案が提案されると、パーツによってクラブ・オリンピアが正式な名称に決定した。この名称は古代オリンピック発祥の地であるギリシャのオリンピアに由来している。パーツは南米各国にスポーツの習慣をもたらした人物のひとりであることから、「パラグアイサッカーの父」と呼ばれている。設立当初は胸部分だけ白色(Olimpiaという文字が書かれた)が使われた黒色のシャツ、白色のパンツを着用していたが、やがて白色と黒色がクラブカラーとなり、白色と黒色の横縞のシャツが導入された。1903年にはパラグアイで2番目のクラブとしてクラブ・グアラニーが設立され、オリンピアとグアラニーによって試合が行なわれた。
1906年にはパラグアイサッカー協会 (APF) が設立され、第1回パラグアイ選手権が開催された。オリンピアは第1回大会から参加し、1911年まではタイトルを獲得できなかったが、1912年シーズンには決勝でクラブ・ソル・デ・アメリカを破って初のリーグ優勝を果たした。同年には、後にライバルとなるセロ・ポルテーニョが設立されている。1914年シーズン、1916年シーズンにも優勝し、1927年シーズンから1929年シーズンにはリーグ3連覇を果たしたパラグアイ初のクラブとなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オリンピア・アスンシオン」の詳細全文を読む



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