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オルク・テムル・ハーン(モンゴル語: 英語:Örüg Temür Khan、生年不詳 - 1408年)は、モンゴル帝国の第22代(北元としては第8代)皇帝(大ハーン)(在位:1402年 - 1408年)。漢語史料の『明史』『明実録』では鬼力亦(グイリチ)と表記される。この人物は『蒙古源流』には一切登場しない〔岡田 2004,p183〕。 == 生涯 == 1402年、クン・テムル・ハーンが崩御したため、オゴデイ家出身の〔オルク・テムルはオゴデイの後裔と推定されている。《岡田 2010,p270-272,370》〕オルク・テムルは位を奪ってハーンを称したが、彼は元という国号を使わず、韃靼(タタール)と称すようになった〔羽田・佐藤 1973,p11〕。 明の永楽帝は使者を遣わし、オルク・テムル・ハーンを諭して好を通じ、銀幣を賜わった。また、知院のアルクタイ(阿魯台)や丞相のマルカジ(馬児哈咱)らにまで賜り物はおよんだ。時にオルク・テムル・ハーンはオイラトと敵対関係にあり、しばしば長城付近を往来したので、永楽帝は北辺の守将たちに命じて、オルク・テムル・ハーンに備えさせた。 1404年、オルク・テムル・ハーンはハミの忠順王アク・テムル(安克帖木児)を毒殺し、アク・テムルの死後に起きたハミの内部抗争に干渉した〔『明史』列伝第217 西域一 哈密衛、列伝第220 別失八裏〕。 1405年、埽胡児とチャガン・ダルガ(察罕達魯花)が明に降る〔羽田・佐藤 1973,p12〕。 1408年、アリクブケ家のオルジェイ・テムルが亡命先のティムール朝から帰国すると、アルクタイはオルク・テムルを殺害し、オルジェイ・テムルを帝位につけた。〔岡田 2004,p183〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オルク・テムル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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