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オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr ()、Owain Glyn Dŵr、1349年ないし1359年ころ – 1415年ころ)は、ウェールズ人としては最後にプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公:)と称した、ウェールズの統治者。グリンドゥールはイングランド王国によるウェールズ支配に抵抗する、強烈かつ長期にわたる反乱を煽動し続けたが、結局のところその試みは失敗に終わった〔"Owain Glyn Dwr (c.1354 – c.1416)", Historic Figures, bbc.co.uk 〕。 日本語における表記は多様であり、オワイン・グリンドゥールのほかに、オウエン・グリンドウ、オウェイン・グリルダウル、オーウェン・グリンドゥールなどが見られる。 == 概要 == グリンドゥールは、父を通して、の王家の血と、の領主 (''Tywysog'')、卿を受け継いでおり、母エレン・ファーハ・トマス・アプ・リウェリン (Elen ferch Tomas ap Llywelyn) を通しての領地や称号も受け継いでいた。 1400年9月16日、グリンドゥールは、イングランド王ヘンリー4世の支配に対してを起こした。当初、この蜂起は相当にうまく行き、たちまちウェールズのかなり広範囲を支配下に収めるまでになったが、決定的な諸々の弱点、特に、反乱側に大砲がないことで防御を固めた城塞の奪取が困難なこと、艦船を保有していないことで海岸線の防御が脆弱なこと、を抱えていた。蜂起は結局のところ、物量に優るイングランド勢によって圧倒された。グリンドゥールは、1409年に最後の拠点からも追い落とされたが捕縛は免れ、彼を目撃したとする記録は1412年を最後に途絶えた。グリンドゥールは、敵方の新王ヘンリー5世が示した恩赦の意向を、2度にわたって無視し、莫大な報酬まで用意されたにもかかわらず、ウェールズを裏切ってイングランド側に帰順することはなかった。1415年には、かつての配下が、グリンドゥールの死を記録した。 グリンドゥールは、ウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー四世 第1部』において、英語化された綴りのオウエン・グレンダワー (Owen Glendower) という名で、魔術と感情に支配された野蛮でエキゾティックな人物として登場する〔"at my nativity, The front of heaven was full of fiery shapes, Of burning cressets, and at my birth The frame and huge foundation of the earth Shaked like a coward." — ''Henry IV, Part 1'', Act 3, scene 1〕。 その死によって、オワイン・グリンドゥールは、民衆を解放するために呼び返されることを待ち続ける英雄として、、カナン (Cynan)、アーサー王に並ぶ、神話的存在となった〔''Encyclopaedia of Wales'' 2008 p.635〕。19世紀後半には、(若きウェールズ)運動が、の父としてのグリンドゥール像を再創出した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オワイン・グリンドゥール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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