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2月内乱()、若しくはオーストリア内戦()は、1934年の2月12日から16日にかけて、エンゲルベルト・ドルフース首相のオーストリア第一共和国政府および護国団等のファシスト勢力とオーストリア社会民主党およびその武力組織であった共和国保護同盟(:de:Republikanischer Schutzbund)をはじめとする社会民主主義勢力との間で行われた小戦闘である。衝突はリンツで始まり、ウィーン、グラーツ、ブルック・アン・デア・ムア、ユーデンブルク、ウィーナー・ノイシュタット、そしてシュタイアーで繰り広げられた。さらに、東部や中央部の他の都市でも幾つかの衝突があった。 オーストリア社会民主党はオーストリアにおける二大政党の内の一つであったが、内戦を引き起こしたとして解散させられ、ドルフースの「祖国戦線」(:de:Vaterländische Front、略してVF)が唯一の合法的な政治勢力となり、「オーストロファシズム」体制が固まる決定的なきっかけになった。 == 紛争の原因 == 第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ドイツ・オーストリア国(かつての大帝国のうちのドイツ語圏の部分によって作られた、妥協によって成立した国民国家)は議院内閣制の国家として成立した。 新しい国家では2つの主要な党派が優位を占めた。つまり社会主義者(政治的にはオーストリア社会民主党によって代表された)と、保守主義者(政治的にはキリスト教社会党によって代表された)である。保守主義者達が地方部の人口や上流階級の大半に支持者を見出していた一方、社会主義者達は都市部の労働者階級に支持層を築いた。保守主義者は同様にカトリック教会との連携を維持し、指導的立場にある何人かの聖職者を自分達の味方に引き入れる事に成功していた。 当時の他の初期ヨーロッパ民主主義と同様に、オーストリアでの政争は高度にイデオロギッシュに行われた。社会主義と保守主義双方の陣営は、ただ単に政党を成立させただけではなかった。彼らは政党所有の準軍事組織を含め、はるかに強力な権力を持った構造を占有した。保守派は、「護国団」(Heimwehr)と呼ばれる準軍事組織を1921年から1923年にかけて組織した。一方社会民主党は、1923年に「共和国保護同盟」(Schutzbund)と呼ばれる準軍事組織を作った。これら2つの組織の間では、政治的大会などにおいて、激論や武力衝突が頻繁に起こるようになった。 最初の大きな事件は、1927年初頭に勃発した、ヘルマン・ヒルトゥルの民兵組織''Frontkämpfervereinigung''(「前線闘争連盟」、保守派と連携を取っていた集団)のメンバーが、ブルゲンラント州のシャッテンドルフで、対抗デモの為に共和国保護同盟と共にパレード行進していた退役軍人と8歳の少年とを射殺した事件である。7月にこの事件の3人の被告人が無罪となった。左翼陣営の怒りに火を付けたこの判決は、オーストリアでも最初期の、独立した陪審制システムのもとで行われた陪審法廷の1つによって下されたものだった(皮肉なことに、独立した陪審制の導入は、長期にわたる社会主義者の要求であった)。1927年7月15日にはゼネラル・ストライキが発生し、デモは首都に飛び火した。警察署が襲撃された後、治安部隊がデモ参加者に向かって銃を撃ち始めた。その後に怒り狂った群衆が、欠点のある部分的な司法制度の象徴でしかないと見られていたユスティーツパラストに火を放った。89人がこの1927年7月暴動で死亡し(彼らの内の85人がデモ参加者)、数百人が負傷した。しかし驚くべき事に、この事件での暴力は直ぐに沈静化し、両党は戦いを街頭から政治システム内部へと移したのだった。 しかしながら、オーストリア第一共和国の苦しみはその後の数年ますます悪化するばかりだった。大恐慌の影響がオーストリアにも現れており、失業率の高騰、大規模なインフレーションという結果が残った。それに加えて、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になった1933年、ナチズムへの共鳴者(後にオーストリアとナチス・ドイツとの統合を求めることになる人々)が内部からオーストリア国家の存立を脅かしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「2月内乱」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Austrian Civil War 」があります。 スポンサード リンク
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