|
オーデル・ナイセ線(オーデル・ナイセせん)は、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の国境線。オーデル川とその支流のナイセ川によって構成される。 == 歴史 == オーデル・ナイセ線は、1945年のポツダム会談により、第二次世界大戦後のドイツ・ポーランドの暫定的な国境として設定された。それ以前のドイツ・ポーランドの国境は、歴史的なプロイセンとポーランドの国境が適用されており、オーデル・ナイセ線よりもずっと東側にあった(参照:ポーランド分割による各国の獲得領土)。 中世フランク王国の時代にはエルベ・ザーレ川付近が境となり、以東、現在のブランデンブルク州やザクセン州付近まで、スラブ系のソルブ人が住んでいた。カール大帝らによるエルベ以東遠征以降、13世紀頃まではおよそオーデル・ナイセ線付近がドイツ(神聖ローマ帝国)とポーランド王国の国境であった。この一帯のシレジア地方では17世紀までポーランド王家のピャスト朝の分家が諸侯として支配したが、13世紀にモンゴル帝国軍が襲来し一帯を荒廃させて撤退すると、疎開から戻ってきたポーランド人住民だけでは戦後の復興のために人手が足りず、西方のドイツ、フランス、オランダなどから多くの移民が招かれた。そのうち特に多かったのはドイツ人で、各地で次第にドイツ語が優勢となっていった。17世紀に最後のピャスト家の侯が死亡すると、シレジアはオーストリアのハプスブルク家に相続された。その後、この地方はシュレージエン戦争の結果、プロイセン王国の手に渡った。以後1945年にナチス・ドイツが第二次世界大戦に敗北するまでは、ドイツの一地方と認識されていた。この地域では統計においては「ドイツ人」が多かったものの、実はそのうちの多くは俗に「シレジア人」「ポメラニア人」「マズーリア人」などと呼ばれる、ポーランド人やチェコ人の家系が近世から徐々に母語を西スラヴ語からドイツ語に変えることで文化がドイツ化した土着のスラヴ系の人々で、彼らは統計においてはドイツ人と見做され、第一次世界大戦後に国家の帰属を問うために行われた住民投票でも、母語のドイツ語が国語であるドイツを選んだ。 ポツダム会談で新しい国境線をオーデル・ナイセ線に設定したのは、 #ポーランドをそれまでより西側に移し、第二次世界大戦開戦までポーランド領であったベラルーシの西側(ナチスに呼応してソ連軍がポーランド侵攻により侵略・不法領有した領土のほとんど)を、引き続きソ連領として存続するのを正当化させること #スターリンの歴史観によると、中世から近代にかけての各国家の発展は王侯貴族やブルジョワがプロレタリアートの意向を無視して行ったもので、無効であるため、ポーランドはまずは10世紀の建国時に設定された国境を持つべきであること #オーデル川と西ナイセ川に国境線を引くことでドイツ・ポーランド間の国境線が最短になるため、将来に両国で戦争となった場合は、他に国境線がある場合に比べるとポーランドの防衛が容易であること #ドイツ系住民の少ないポーランドを作ることで将来の民族紛争の種をなくすこと などが目的であった。結果として第二次世界大戦前後で比較すると、ポーランドは国土全体が西側に移ったような形となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーデル・ナイセ線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Oder-Neisse line 」があります。 スポンサード リンク
|