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オーテス・ケーリ(Otis Cary、1921年10月20日 - 2006年4月14日)は、アメリカ合衆国の情報将校、教育者である。同志社大学教授、名誉教授。オーティス・ケーリ、オティス・ケーリなどの表記もある。 == 経歴 == 1921年、北海道小樽市富岡町に生まれる。父は宣教師、同志社理事のフランク・ケーリ(1888年 – 1973年)、祖父は宣教師で同志社神学校教授、理事のオーテス・ケーリ(1851年 - 1932年)。 14歳でアメリカに帰国、アマースト大学に学び、1941年にアメリカ海軍日本語学校に入学。ドナルド・キーンは同級生。1943年2月、海軍少尉となり真珠湾の陸海軍情報局に配属され、アリューシャン列島の作戦及びサイパン島の占領に参加。サイパン島では、手榴弾で自決をはかった従軍看護婦の菅野静子に生きることを勧め自決を思いとどまらせている。 海軍大尉となり、ハワイの日本人捕虜収容所長となる。収容所では、捕虜の処遇改善に務めるとともに、参加者を厳選した特別な捕虜作業班「新聞グループ」を作り、新聞形式の宣伝ビラ「マリヤナ時報」の編集にあたった。ポツダム宣言を翻訳し、その後の日米折衝経過を伝えたビラは、戦場や空襲下の日本全国に撒かれ、戦争終結の促進に貢献した。 1945年9月に来日、捕虜たちの生存を伝えるため、捕虜からの手紙を持って留守宅を回る。捕虜であった横田正平の義兄である精神科医式場隆三郎の仲介により、6回にわたり高松宮宣仁親王と会談。皇室改革について提言を行う。 米国に帰国してアマースト大学で学位を取得したあと、1947年、同志社大学に派遣され、米国文化史などを講義した。1979年まで同志社大学の学生寮アーモスト館館長を務める。 1987年、勲三等瑞宝章を受章。 1992年、同志社大学を定年退職し、名誉教授となる。 1996年、心身の不調から米国で療養生活を送ることを決断し、帰国。 2006年4月14日、死去。 長女のベス・ケーリ(Beth Cary)は翻訳家で、宮崎駿の米国での通訳や著作の翻訳などを手がけている。 次女のアン・ケーリ(Ann Cary)は翻訳家、神戸女子大学文学部教授。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーテス・ケーリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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