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オディロ・ロタール・ルドヴィクス・グロボクニク(Odilo Lothar Ludovicus Globocnik、1904年4月21日‐1945年5月31日)は、ドイツの政治家、官僚、軍人。 オーストリア・ナチ党で頭角を現し、アンシュルス後にはナチ党ウィーン大管区指導者を務めた。第二次世界大戦中には親衛隊(SS)の将軍としてポーランド・ルブリン地区親衛隊及び警察指導者を務め、ラインハルト作戦(ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画)の執行にあたった。最終階級は親衛隊中将および警察中将(SS-Gruppenführer und Generalleutnant der Polizei)。「グロボチュニク」、「グロボツニク」などの表記も散見する。愛称はグローブス(Globus)。 == 経歴 == === アンシュルス前 === 当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったトリエステにハプスブルク騎兵隊大尉フランツ・グロボクニクとその妻アンナの息子として生まれる。オディロも陸軍幼年学校に入ったが、第一次世界大戦の影響でケルンテンのクラーゲンフルトへ移り、文官の高校へ入学した。 卒業後、ケルンテンで建築士の仕事をした。1922年にオーストリア・ナチ党に入党。1931年3月1日にはドイツ・ナチ党にも入党(党員番号412,938、後に442,939)している。また1934年9月1日に親衛隊(SS)の隊員となる(隊員番号292,776)。オーストリアでのグロボクニクは、オーストリア・ナチ党とドイツ・ナチ党との連絡役を務めていた。1934年末頃にはドイツ・ナチス党のSD長官ラインハルト・ハイドリヒのオーストリアでの密接な連絡者になっていた。1936年7月16日にはアドルフ・ヒトラーのベルヒテスガーデンの山荘に招かれており、オーストリア・ナチ党が非合法活動から手を引くことを求められた。 グロボクニクは、やエルンスト・カルテンブルンナーに近い立場をとっており、当初はオーストリア・ナチ党の合法化に固執しなかった。1933年から1935年にかけてグロボクニクは4度にわたりオーストリア警察から逮捕されている。しかしその後、ライナー・カルテンブルンナー・グロボクニクらは、合法路線のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトらと連携し、ザイス=インクヴァルトのナチス党政権をつくることに尽力した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オディロ・グロボクニク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Odilo Globocnik 」があります。 スポンサード リンク
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