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オーディ・レオン・マーフィ(Audie Leon Murphy 1924年6月20日 - 1971年5月28日)は、アメリカの軍人、映画俳優。第二次世界大戦中にはアメリカ陸軍の軍人として多数の勲章を受章し、1945年7月16日のLIFE誌で「最多受章兵士」("Most Decorated Soldier")として表紙を飾ったことにより有名になった。戦後は映画俳優に転じ、20年以上にわたり44本の映画に出演した〔Obituary ''Variety'', June 2, 1971, p. 55.〕。またカントリー・ミュージックの作曲家としても成功を収めている。 西部戦線における17ヶ月の勤務の間、彼はアメリカにおける最高級軍事勲章である名誉勲章を受章したほか〔、フランスやベルギーを始めとした諸外国からのものも含めて32つの勲章等を受章している〔 〕〔。また1955年に公開された自伝的映画『地獄の戦線』(To Hell and Back)は、1949年に出版された同名の著書に基づいている〔。 1971年、航空事故によって46歳でこの世を去った。彼は軍葬をもってアーリントン国立墓地に葬られた〔〔。 ==第二次世界大戦まで== ===幼少期=== オーディ・レオン・マーフィは貧しいアイルランド系移民〔の小作人の父エメット・ベリー・マーフィ(1886年2月20日 - 1976年9月20日)と母ジョージ・ベル(旧姓キリアン 1891年 - 1941年)の元〔 〕、テキサス州ハント郡キングストンに生まれた。彼はテキサス州のファーマーズビル、グリーンビル、セレステなどの農場で幼少期を過ごした。彼は12人兄弟の六男だったが〔、兄弟のうち2人は成人前に死去している〔。 オーディはセレステの小学校に通っていた。しかし1936年には父が失踪した為に5年生で中退し、家族の生活を支えるべく近隣の綿花農場で日給1ドルで働いた。またこの頃、オーディは家族の食料を得る為にウサギ狩りや鳥撃ち、リス撃ちなどの小物狩猟を行い、ライフルの腕が非常に上達したのだという〔。狩猟仲間だったダイヤル・ヘンリーがオーディに「君は何だろうと撃ち損ねたことなんてないな」と話しかけた時には「そうだとも、僕が撃ち損ねたら、家族は何も食べるものがないんだから」と答えた〔Stephen L. Henley, Sr., J.D.〕。1941年5月23日、オーディの17歳の誕生日1ヶ月前に母が死去する。その後、彼はグリーンビルの雑貨店やガソリンスタンドを経て、ラジオ修理店で働くようになった。同年末には兄弟の暮らしも厳しくなり、オーディは兄や既婚者の姉コリーヌらとの話し合いを経て、末の3人を孤児院に引き渡した。この3人の兄弟は第二次世界大戦後に再び兄弟の下に返された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーディ・マーフィ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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