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オボイ(満州語、転写:Oboi、鰲拝、1610年頃 - 1690年)は、清朝前期の政治家、軍人である。オーバイとも。姓はグワルギャ(Gūwalgiya、瓜爾佳)。満洲鑲黄旗出身。太祖ヌルハチの腹心として活躍したフュンドン(Fiongdon、費英東)の甥、納穆福の父。 == 略歴 == 太宗(ホンタイジ)の時代から対明戦争で軍功を挙げる。1643年太宗死去に伴い、後継をめぐって長子の粛親王ホーゲ(Hooge、豪格)と、太宗の弟の睿親王ドルゴン(Dorgon、多爾袞)を推す勢力が牽制し合ったが、オボイはソニン(Sonin、索尼)とともに正黄旗・鑲黄旗の兵を背景として、ホーゲの弟である6歳のフリン(Fulin、福臨、のちの順治帝)の擁立に尽力。順治帝が即位し、摂政としてドルゴンが補佐する体制が確立した。 翌1644年、李自成によって明が滅亡すると、明清境界にあった山海関の守将・呉三桂が投降。これを受けドルゴン率いる皇帝直属軍が入関、南下して李自成軍を撃破。オボイは英親王アジゲ(Ajige、阿済格)の軍に従い、李自成・張献忠の軍を破り、遵義・茂州などを落とした。順治帝は北京に入城し、中華皇帝として中国本土の支配を開始するが、実際にはドルゴンが権勢を極め、1648年には皇父摂政王と称されるなど、独裁体制を築きつつあった。しかし1650年にドルゴンが狩猟中に死去。以後は順治帝が親政を行った。オボイはこれまでの軍功から議政大臣に任命され、二等公を授けられ、後に領侍衛内大臣・少傅兼太子太傅となるなど、順治帝の腹心として地位を高めた。 順治18年(1661年)、順治帝は天然痘で24歳にて急死。8歳の玄燁(康熙帝)が即位し、遺詔によりソニン、オボイ、スクサハ(Suksaha、蘇克薩哈)、エビルン(Ebilun、遏必隆)の4人が輔政大臣に任ぜられ、幼い康熙帝を補佐することになった。幼い頃ドルゴンの権勢に圧倒されていた順治帝が、自らの後継者康熙帝に同様の苦難を受けることのないように、権力の分散させ4人を牽制させたものと見られる。しかし、4人の輔政大臣は互いの利権を巡って相争うことになる。特にオボイとスクサハは折り合いが悪く、老年のソニンがかろうじて2人を抑えていた。 康熙6年(1667年)ソニンが死去すると、オボイの勢力が他を圧倒するようになる。身の危険を感じたスクサハは「先帝の陵墓を守って余生をおくりたい」と官を辞そうとするが、オボイは逆に24箇条もの罪状を讒言し、スクサハの一族を処刑に追い込んだ。残るエビルンはオボイに従い、一等公に昇格したオボイの専制が確立され、順治帝の遺詔は意味を失うこととなった。 しかし、少年皇帝康熙帝はオボイの専横を憎み、ひそかに親政を企てるようになる。康熙帝は年少の側近と日々ブフ(モンゴル相撲)に興じて、表向き政治に無関心を装うことでオボイの油断を誘った。康煕8年5月3日(1669年6月1日)、皇帝たちのブフを視察に訪れたオボイは、突然取り押さえられ、逮捕された。同月26日30箇条に及ぶ罪状を宣告され、一族郎党もろとも死罪となったが、康煕帝はかつての軍功を鑑みてオボイのみ終身刑とした〔清史稿本紀六 康煕八年五月乙未条、同庚申条〕。こうして権臣オボイを失脚させた康熙帝は皇帝親政を開始し、61年の治世で清朝の黄金期を築くことになる。一方オボイは釈放されることなく、同年のうちに獄死した。 康熙52年(1713年)かつての功績によってオボイの罪は許された。雍正帝が即位すると再び一等公を追贈され、超武公の称号を賜るが、乾隆帝の時代になると改めて一等男に落とされ、オボイの子孫は世襲を許された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オボイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Oboi 」があります。 スポンサード リンク
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