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オーリアンズ(Orleans)〔カナ表記ではこのほか「オルレアンズ」などとするものも散見されるが、発音はオーリーンズがより原音に近い。〕は1972年にニューヨーク州ウッドストックで結成されたアメリカのポップ・ロック・バンド。1975年のアルバム『歌こそすべて (Let There Be Music)』、そこからシングル・カットされたヒット「(Dance With Me)」がとくに有名。 ==キャリア== 1972年2月、ギタリストで作曲家のジョン・ホール(John Hall、後にアメリカ合衆国下院議員)、ギタリストでシンガーのラリー・ホッペン、ドラマーのウェルズ・ケリーを中心に結成される。同年11月、ラリーの弟ランス・ホッペン、ドラマーのジェリー・マロッタが加入。 アメリカ北東部のクラブ、大学を地道にサーキットして後々のコアなファンを開拓、下積み当時にはボニー・レイット、トム・ウェイツ、ホール&オーツなど前途有望なアーティストと出会って刺激を受ける。 1973年、ABCレコードのダンヒル・レーベルからセルフタイトルのデビュー・アルバムをリリースしたが大した反響は得られず、続く2nd『オーリアンズⅡ (Orleans Ⅱ)』もアメリカ本国ではリリースされず、日本、ヨーロッパでのリリースに止まった。 アサイラム・レコードに移籍し、チャック・プロトキンのプロデュースで制作した3rdアルバム『歌こそすべて (Let There Be Music)』(1975年)からシングル・カットした「ダンス・ウィズ・ミー」が同年秋にビルボードの6位まで上昇する大ヒットとなり、一躍注目を浴びる。 続く1976年の4作目『夢のさまよい (Waking and Dreaming)』もビルボードの30位まで上昇し、シングル「スティル・ザ・ワン (Still the One)」はチャートの5位まで上る大ヒットとなった。この曲がチャートを駆け上がると同時期に、バンドはレーベル・メイトのジャクソン・ブラウンと大陸横断ツアーを行った。 本来はアーシーなR&Bやロックンロールに根差した音楽を志向していた彼らだが、これらのヒット曲のイメージにより、ボーカル・ハーモニーをサウンドの軸に据えたソフトロックの雄として認知され、メリサ・マンチェスターとのパッケージ・ツアーにも出かけた。 しかし、本来の自分の志向と違う形での成功にストレスを感じたジョン・ホールは、ソロ活動を望んでグループを脱退した。 1979年、ホッペン兄弟とケリーはバンドを立て直し、新たにインフィニティ・レコードと契約。アルバム『フォーエバー』(Forever)からシングル・カットした「友よ再び」(Love Takes Time)はチャートの11位を記録し、スティーヴン・スティルスや、シカゴとのツアーも盛況であった。 1984年のミートローフとのツアー中にウェルズ・ケリーが急死したことをきっかけに、ホッペン兄弟とジョン・ホールは再接近。1986年、ホールが復帰したオーリアンズは、MCAレコードの名プロデューサー、トニー・ブラウンのプロデュースによるアルバム『グロウン・アップ・チルドレン (Grown Up Children )』をリリース。 1991年には2枚組ライブCDを日本でリリース(本国アメリカでのリリースは1993年)、2回にわたる日本ツアー、ウッドストック 1994への出演、1995年の「キャント・ストップ・ロッキン・ツアー」への参加(共演はフリートウッド・マック、REOスピードワゴン、パット・ベネター)など、90年代も精力的に活動した。 2006年にニューヨーク州から下院議員に選出されたジョン・ホールは、グループ活動に帯同できなくなり、任期中(2007年から2011年)はごく限られた機会にのみ登場するようになった。 2012年7月24日、ラリー・ホッペンが死去。死因は明らかになっていない。同年8月にバンドのウェブサイト上でその後の年内のスケジュールについて、ジョン・ホールが復帰して活動を続行することを発表。その後9月16日にウッドストックのベアズヴィル・シアターにて旧メンバーのボブ・レインバックも参加して追悼ライブが行われた。 ラリー・ホッペン死去後、現在のラインナップは、ジョン・ホール(G,Vo)、ランス・ホッペン(B,Vo)、ホッペン兄弟の末弟レイン・ホッペン(Key)、ホール不在のオーリアンズで後任を務めていたデニス・アメロ(G,Vo)、長くエルトン・ジョンのサポートを務めたチャーリー・モーガン(Ds)の5人組である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーリアンズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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