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オールドチャーチの戦い : ウィキペディア日本語版 | オールドチャーチの戦い[おーるどちゃーちのたたかい]
オールドチャーチの戦い(オールドチャーチのたたかい、、またはマタデクィンクリークの戦い、)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月30日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である 両軍がトトポトミー・クリークを挟んで対峙したとき、アルフレッド・T・A・トーバート准将の指揮する北軍騎兵師団が、オールドチャーチ交差点に近いマタデクィン・クリークでマシュー・C・バトラー准将の南軍騎兵旅団と衝突した。下馬した両軍騎兵の間に激しい戦闘が起きた後、数に劣る南軍がオールドコールドハーバーから1.5マイル (2.4 km) 以内まで後退を強いられた。翌日には北軍がその重要な交差点を抑えることになった。 == 背景 ==
南北両軍の歩兵部隊が5月30日にトトポトミー・クリークの戦いで戦っているとき、北軍騎兵軍団長のフィリップ・シェリダン少将が、第5軍団長のガバヌーア・ウォーレン少将からの援助要請を受けるようになっていた。ウォーレンは北軍の左翼で前に出て孤立した軍団の位置が危険になっていると心配していた。騎兵軍団はホーズショップの戦場近くで宿営しており、パムンキー川沿いのホワイトハウスとニューキャッスルフェリーの補給基地に繋がる道路のネットワークを保護するためにこの地域に集中していた。この地域はウィリアム・F・"ボールディ"・スミス少将の第18軍団からの援軍が移動することが見込まれていた。シェリダンは当初スポットシルバニア・コートハウスの戦い(5月8日-21日)の初めにウォーレンとした議論の蟠りが残っており、その要請にあまり注意を払わなかった。ポトマック軍指揮官のジョージ・ミード少将はシェリダンともウォーレンとも喧嘩することが度々だったので、かれらの論争の埒外に身を置いていた。しかし、ウォーレンの要請がより急を要するようになると、シェリダンはウォーレン軍団の左翼に導く道路を遮蔽することに合意し、アルフレッド・T・A・トーバート准将の師団にその任務を割り振った。トーバートはオールドチャーチ交差点で宿営していたトマス・C・デビン大佐の旅団をその任に就かせた。その指示がこの命令系統を伝っていくと、内容が誤って伝えられた。ウォーレンが望んでいた様に、オールドチャーチ道路を西に偵察するのではなく、デビンは南のオールドコールドハーバーに向かうボトムズブリッジ道路で哨戒を行うと理解するようになった。デビンはその部隊をマタデクィン・クリークの北岸にあった防御に優れた陣地に置き、ペンシルベニア第17騎兵隊の1個大隊を、クリークより南、バーカー農園の前寄りの位置に派遣した〔Rhea, p. 133. The old church that gave the crossroads its name was long gone. An inn owned by James A. Lipscomb, named the Old Church Hotel, and a newer structure, the Emanuel Church, were nearby. Salmon, p. 294, states that the squadron was from the 17th New York Cavalry.〕。 一方、シェリダンが知らないうちに、南軍ロバート・E・リー将軍はアメリカ連合国の首都リッチモンドから僅か6マイル (10 km) しか離れていないオールドコールドハーバーにある重要な道路の交差点のことを心配していた。リーは、その交差点が脅かされているかを判断するために、メカニクスビルからマシュー・C・バトラー准将の旅団2,000名を派遣した。バトラーは自身の旅団からサウスカロライナ第4および第5騎兵連隊(あまりに経験が足りないと考えた第6連隊は後に残した)と、マーティン・W・ゲーリー准将の小さな旅団(サウスカロライナ第7騎兵連隊のみ)を率いていった。南軍の騎兵は5月30日朝に出発し、午後1時と2時の間にバーカー農園近くに到着した〔Rhea, p. 134.〕。
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