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カイリー・アービング(Kyrie Andrew Irving 1992年3月23日 - )は、アメリカ合衆国のバスケットボール選手。NBAのクリーブランド・キャバリアーズに所属している。ポジションはポイントガード。 == 経歴 == 父親はボストン大学で1988年にはNCAAトーナメントに出場したが、1回戦で22年後に息子カイリーが入学したデューク大学に敗れた。カイリーは父がオーストラリアでプロバスケットボール選手としてプレーしていた時に、ビクトリア州メルボルンで生まれた。 2歳の時に一家は、アメリカに移り、4歳の時に母親が死去した〔。ニュージャージー州ウェストオレンジで成長した。父親に連れられてしばしば大人との試合に参加した〔。4学年のときにコンチネンタル・エアラインズ・アリーナを訪れて、将来NBAでプレーすることを誓った。16歳の時に父親との1on1で15-0で勝った〔。 高校の1年次、2年次に、モントクレアキンバーリーアカデミーでプレーして、平均26.5得点、10.3アシスト、4.8リバウンド、3.6スティールをあげた。その後、大きなチャンスをつかむために、セントパトリック高校に転校し、マイケル・キッド=ギルクリストとともにプレーした。3年次に平均17.0得点、5.0リバウンド。6.0アシスト、2.0スティールをあげた。2009年にはでアメリカイーストチームで出場。平均21.3得点、4.3アシストをあげてMVPに選ばれた。翌年高校が州のトーナメント出場停止処分を受けたものの、彼は平均24.0得点、5.0リバウンド、7.0アシストをあげた。 2010年1月18日、ジュニアナショナル選抜チームに選ばれた。このチームは同年4月10日、オレゴン州ポートランドのローズ・ガーデンで行われたナイキ・フープサミットに出場した。アービングは2010年のマクダナルズ・オール・アメリカンゲーム、にも出場、ジョーダン・ブランド・クラシックではハリソン・バーンズとともにMVPに選ばれた〔 〕。2010年6月には、U-18バスケットボールアメリカ選手権で優勝した〔 〕。大学入学前にScout.comからは全米2位、ESPNUからは全米3位、Rivals.comからは全米4位の高校生選手と評価された。 2009年10月22日、デューク大学への進学を表明した。2010-2011シーズン、アービングはマイク・シャシェフスキーヘッドコーチのもとで開幕から8試合で平均17.4得点、5.1アシスト、3.8リバウンド、FG成功率53.2%と活躍したが、9試合目で右足のつま先を負傷し、NCAAトーナメント前の3月17日に12月4日の試合以来、4カ月ぶりに復帰した。NCAAトーナメントではアリゾナ大学にベスト16で敗れ、これがデューク大学での最後の試合となった。 大学2年に進級せず、2011年のNBAドラフトにアーリーエントリーを表明し、全体1位でクリーブランド・キャバリアーズに指名された〔 〕。この年、NBAはロックアウトが行われ、新人選手との契約は例年より遅れた。アービングは同じく新人のトリスタン・トンプソンとともに12月10日に契約を結んだ。2人はオールスター週間に行われたライジング・スターズ・チャレンジに共に出場した。ライジング・スターズ・チャレンジでアービングは、チームチャックでプレーし、34得点、8本中8本のスリーポイントシュートを決めるなど活躍しMVPを獲得している。2011-12シーズン、平均18.5得点、5.4アシスト、FG成功率46.9%、3ポイントシュート成功率39.9%の成績をあげて、ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票では、120人中117人に1位票が入れられて選ばれた〔 〕。またその年のルーキーで唯一、NBAオール・ルーキー・ファーストチームに満場一致で選ばれている〔 〕。 2012年7月14日、ラスベガスで行われたNBAサマーリーグのチーム練習でターンオーバーを喫したいらだちから、パッドの入った壁を叩き、右手を骨折した。11月17日のダラス・マーベリックス戦で人差し指を負傷したが、X線検査の結果、骨には異状がなかったため、11月20日のフィラデルフィア・セブンティシクサーズ戦にも出場したが、シュート14本中4本成功、シーズンワーストの9得点に終わり、復帰までに1カ月近くかかることとなった〔 〕。12月15日のニューヨーク・ニックス戦でキャリアハイの41得点をあげた。この試合ではミルウォーキー・バックス戦で負傷したためフェイスマスクを着用していた。マディソン・スクエア・ガーデンで40得点をあげた選手としては、1985年のマイケル・ジョーダンより1歳若い、史上最年少選手となった。 2013年のNBAオールスターゲームにコーチ推薦で選出され、15得点、4アシスト、3リバウンドをあげた。ライジング・スターズ・チャレンジにもこの年出場し、チームシャックでプレーし、32得点をあげたがチームは敗れた。NBAスリーポイント・シュートアウトでは決勝で23得点をあげて優勝した〔 〕。この年、平均22.5得点、5.9アシスト、3.7リバウンド、1.5スティールをあげた。 2014年のオールスターでは、ファン投票でオールスターに選出され〔 〕、イースタン・カンファレンスの先発ポイントガードとして、31得点、14アシストをあげて、MVPに選ばれた。4月15日のシャーロット・ボブキャッツ戦ではキャリアハイの44得点をあげたが、チームはオーバータイムの末、敗れた。この年、平均20.8得点、6.1アシスト、3.6リバウンド、1.5スティールをあげた。 2014年7月10日、キャバリアーズと5年9000万ドルで契約を延長した。5年振りにレブロン・ジェームズが復帰、ミネソタ・ティンバーウルブズとのトレードでケビン・ラブが加入して、ビッグスリーと呼ばれた。 2014年バスケットボール世界選手権ではアメリカ代表のメンバーとして、全9試合に先発し、平均12.1得点、3.6アシストをあげて金メダルを獲得した。決勝では26得点をあげた。この年のアメリカ男子バスケットボール最優秀選手に選ばれた。 シーズン開幕当初は、5勝7敗と出遅れたが、チームはその後8連勝し、この間アービングは12月4日のニューヨーク・ニックス戦で37得点をあげるなど、平均19.3得点をあげた。12月11日にオクラホマシティ・サンダーに敗れて連勝は止まったものの、12月末までの試合でチームは18勝14敗と勝ち越しで年明けを迎えた。1月4日のダラス・マーベリックス戦では背中を痛めて、第3Qまでで試合を退き、シーズン最少の6得点に終わった。1月7日のヒューストン・ロケッツ戦で復帰、シーズンハイの38得点をあげたものの、チームは最近9試合で7敗目を喫した。1月4日から13日までチームは7連敗で19勝20敗となったが、その後アービングとレブロン・ジェームズがチームを牽引し、12連勝した。この間、アービングは1月28日のポートランド・トレイルブレイザーズ戦では11本の3ポイントシュートを成功させるなど55得点をあげるなど〔 〕、平均24.5得点をあげた。 オーバータイムまでもつれた3月12日のサンアントニオ・スパーズ戦では、第4Qに同点となるブザービーターの3ポイントシュートを決めるなど、キャリアハイの57得点を記録した〔 〕。ディフェンディングチャンピオンから57得点あげたのは、1962年1月14日にフィラデルフィア・ウォリアーズのウィルト・チェンバレンがボストン・セルティックス戦で62得点をあげて以降の最多得点であった。57得点はレブロン・ジェームズが2005年3月3日のトロント・ラプターズ戦であげた56点を更新するキャバリアーズチーム記録にもなった。チームは最後の43試合を34勝9敗で終えて、イースタン・カンファレンス第2シードでNBAプレーオフ出場を決めた。アービングにとってNBA4シーズン目で初のプレーオフ進出であった。 プレーオフ2回戦、シカゴ・ブルズとの第6戦、左膝を痛めて、第2Q残り9分47秒にベンチに下がり復帰できなかったものの、チームは94-73で勝利し、カンファレンスファイナルに進出した。 ひざの怪我でアトランタ・ホークスとのカンファレンスファイナルを2試合欠場したが、チーム史上2度目となるNBAファイナル出場を果たした。 ゴールデンステート・ウォリアーズとのファイナル第1戦のオーバータイムに、左足を捻った際に以前から傷めていた左膝の傷みを悪化させた。診断の結果膝蓋骨を骨折していたことが判明し、全治3~4ヶ月と診断され、ファイナル残り試合の出場が絶望となり、ファイナルも2勝4敗で力尽きた。 2015-16シーズンは、前述の骨折の回復が遅れ、開幕から欠場していたが、2015年12月20日のフィラデルフィア・76ers戦で復帰した〔Irving boosts Cavaliers despite uneven debut 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カイリー・アービング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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