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カタリナ・ラブレ : ウィキペディア日本語版
カトリーヌ・ラブレ

カトリーヌ・ラブレあるいは聖カタリナ・ラブレ〔カトリックは世界的なものなので、しばしば聖人の名は各国の人々が呼びやすいようにその国の言葉に置き換えられて呼ばれているが、Catherine Labouréの場合は、生誕地のフランス語読みでは「カトリーヌ・ラブレ」なのであるが日本のカトリック教会では通常(なんらかのいきさつで、おそらく一旦スペイン語名への言いかえを経た)「カタリナ・ラブレ」と呼ばれている。〕(フランス語:Catherine Labouré、1806年5月2日-1876年12月31日)は、フランスの修道女。1830年1月22日聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会(以下、「愛徳姉妹会」)に入会。24歳の修練者の時に聖母マリアの出現を受け、不思議のメダイの作成を指示された。〔 St. Catherine Laboure
==幼少期==
1806年5月2日、夕暮れのお告げの祈りの鐘が鳴り響く中で、カトリーヌは中流の上の農家の Pierre Labouré ピエール・ラブレを父としてLouise Gontard ルイーズ・ゴンタールを母として、11人の子の9番目として(10人の子の8番目として)、ブルゴーニュ
という農村で誕生した。翌日にはカトリック教会洗礼がなされた。彼女が洗礼を受けたのは、聖十字架(The True Cross)のうえであった。カトリーヌが9歳の時、彼女の母親が亡くなった。母親の葬儀の後に、カトリーヌは自室の聖母像をはずして口づけをし、「聖母マリア、今からあなたが私のお母様です」と言ったという。
その後カトリーヌは1年間、妹のトニーヌとともにパリにいる叔母のマルグリットに預けられたが、その後父や兄弟姉妹を助けるために実家に戻り家事や家畜の世話をした。カトリーヌは父親のお気に入りの子供であり、頼りにされていた。
 1818年1月25日にカトリーヌは初聖体を受けた。この日以来、カトリーヌは毎朝4時に起きて数マイル先の教会のミサに参列して祈った。
 ある日、カトリーヌは年老いた司祭ミサを司っている夢を見た。ミサの後、その司祭は振り返ってカトリーヌを指で手招きしたが、カトリーヌは、後ずさりしてしまい、彼女の眼は彼を見つめたままであった。夢の中の情景は病室に変わったがそこにも同じ司祭がいた。その司祭は、「私の子よ、病人の世話をすることはとてもいいことなのだよ。あなたは逃げてしまったが、私のところに来てくれる日が来ると嬉しい。神はあなたがそうするようになされた。それを忘れないように。」目覚めた後のカトリーヌはその夢の重要さにまだ気づいていなかった。
ある時、カトリーヌが愛徳姉妹会の病院を訪れた時、カトリーヌは壁に掛っている絵に気が付いた。カトリーヌは近くにいた修道女にたずねると、こう答えた。「あれは私たちの会の創始者である聖ヴァンサン・ド・ポールです。」そしてそれは彼女が夢に見た司祭でもあった。〔Association of the Miraculous Medal

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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