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カトリック王党軍(カトリックおうとうぐん、)は、フランス革命期のヴァンデの反乱において主にヴァンデ地方で組織されていった軍事組織。ヴァンデ軍、反革命軍、白軍(対して政府軍は青軍)ともいう。カトリック王党軍というのはあくまでも彼らの名乗りであって、革命政府(政府軍、共和軍)から見れば単に反乱軍だった。 ==概要== 元々何らかの準軍事組織的なものがあった訳ではなく、1793年3月11日の民衆蜂起以降に各都市や拠点で次第に膨れ上がって構成された。軍事行動をとる組織ではあったが女性や子供、老人や病人まで含まれており、区別は難しいものの主な戦闘要員だけでも最大で6万人あまりの組織になった。財政はブルジョアジーから没収した土地や独自紙幣の発行に拠っていた。 ヴァンデ地方は西部のマレ地帯(湿地帯)、北東部のボカージュ地帯(森林地帯)、南東部のプレーン地帯(穀倉地帯)の三つに大きく分けることができ、このうちマレ地帯、ボカージュ地帯の民衆がカトリック王党軍側についた。プレーン地帯の民衆は革命政府側についた。身分や思想で言えば旧特権身分の聖職者や貴族、王党派の人々がカトリック王党軍側についた。 民衆蜂起後の1793年6月29日、革命政府を支持した隣接する都市ナントを攻撃するが攻略できず、緒戦にして敗北、撤退した。このとき最高司令官のカトリノーが戦死する。以降大規模な攻勢にでることができず、次第に防衛戦の様相を呈する。同年10月9日にリヨンが降伏(リヨンの反乱)した後、10月17日カトリック王党軍はヴァンデで大敗を喫する。その後政府軍に追われ、英国軍、亡命貴族軍を頼ってロワール川を目指して北上を開始する(結局英国軍の支援は得られず、亡命貴族軍などいなかった)。同年12月19日にトゥーロンの王党派政府も降伏(トゥーロン攻囲戦)。それから4日後の12月23日、カトリック王党軍はロワール川の渡河に失敗して大敗し、これが決定的な敗北となる。その後戦闘は小規模化し、罠なども利用しながらのゲリラ活動になっていく。 捕らえられたカトリック王党軍捕虜は、1793年12月から1794年4月にかけて各地の刑場などでそのほとんどが集団処刑された。銃殺刑が主だったが、ナントでは4,800人余りがカリエの考案した溺死刑によって処刑された。それら以外は獄死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カトリック王党軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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