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カトリック聖職者のウスタシャへの関与では、枢軸国が占領していたユーゴスラビアの領土に1941年につくられたナチスの傀儡政権、クロアチア独立国(NDH)でのカトリック教会の役割について記述する。クロアチア独立国はウスタシャによって動かされていた。 == 建国と承認 == クロアチア独立国の建国は直ちにカトリック教会の聖職位階制や多くの司祭から歓迎された。ウスタシャの最高指導者アンテ・パヴェリッチはカトリックをクロアチア文化にとって不可欠であると見ており、反セルビアで親カトリックだった〔Phayer, 2000, pg. 32.〕。コーンウェルは「1300年前に遡る教皇権への忠誠心」をカトリック教徒のクロアチア人からの正教徒であるセルビア人に対する恨みと共に、「クロアチア独立国の形成を下から支えた」という歴史上の実績の一つとして見ている〔。 バチカンの承認が幅広いクロアチア人の支持を得る為に要であったから、ウスタシャにしてみれば、「バチカンとの関係はドイツとの関係と同じ位に重要であった」〔。アンテ・パヴェリッチはクロアチアの独裁者になった直後の1941年5月にローマで教皇の個人的謁見を受けた〔。マイケル・フェイヤー(Michael Phayer)によると、「1941年に教皇の祝福を受けた後に、アンテ・パヴェリッチとウスタシャの軍人達は彼らの新しい国家で語られない虐殺を無遠慮に開始した」という〔Phayer, 2008, pg. 219.〕。しかしながら、教皇ピウス12世はウスタシャとの関係を絶つ事を拒否し、1943年に再びパヴェリッチと面会した〔。ピウス12世はパヴェリッチを受け入れた事を批判され、英国外務省の非公開メモにはピウス12世は「我々の時代で最も偉大な道徳上の臆病者だ」と書かれてあった〔Mark Aarons and John Loftus ''Unholy Trinity'' pgs. 71–2〕。この部分では、バチカンはウスタシャがクロアチアで共産主義を打ち負かし、第一次世界大戦より以前に正教会に改宗していた約20万人の多くにカトリックの再洗礼を受けさせることを望んでいた〔。 アロイジエ・ステピナツ大司教は1934年に叙階された時に世界最年少の司教だった〔Phayer, 2000, pg. 34〕。彼は大司教になった直後にバチカンから僅かの案内しか受けず、ウスタシャの台頭に対してどう対処するかについて大きな余裕が与えられた〔。彼のより低い立場の司教や聖職者達は彼と同じ感覚を共有していなかった〔。ステピナツは1941年5月にウスタシャから距離を置こうと試み始めた〔。1941年の夏と秋にウスタシャの殺人が「急激に増加」すると、ステピナツは教会のウスタシャへの協力について「厳しい批判」に晒されたが、「ウスタシャとの関係はまだ途絶えていなかった」〔Phayer, 2000, p. 36.〕。ステピナツはウスタシャの立場を「都合良く解釈」し、「限られた返答で結論を出した」〔。 ステピナツはカトリックのクロアチアへの希望を共有し、ユーゴスラビア国家は「クロアチア民族の監獄」だと見ていた〔。バチカンはステピナツ程には熱心ではなく、ジュゼッペ・ラミロ・マルコーネを教皇訪問者(Apostolic visitor)として派遣しただけで公式にはウスタシャを承認しなかった〔。ステピナツは教皇ピウス12世とパヴェリッチとの会談を設定してこの行程に満足し、これを「事実上」の承認として、マルコーネは名目上の教皇大使に過ぎないと見ていた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カトリック聖職者のウスタシャへの関与」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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