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カトワーンの戦い[かとわーんのたたかい]
カトワーンの戦いは、1141年9月9日に起きた、西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる〔''Journal of Central Asia", Vol. 16, (Centre for the Study of the Civilizations of Central Asia, 1993), 19頁〕。 == 背景 == 916年より、中国北部には契丹人の国家である遼が存在していたが、1125年に女真族の国家である金によって滅ぼされた。皇族の耶律大石は遼の遺民の一部を率いて中央アジアに移動し、東カラハン朝の本拠地であるベラサグンを制圧した。 1137年に西遼の軍はホジェンド近郊で西カラハン朝を破り、西カラ・ハン朝の君主マフムード2世を臣従させる。敗れたマフムード2世は叔父にあたるセルジューク朝のスルターン・アフマド・サンジャルに助けを求めた〔Biran, Michal. (2005), 42頁〕〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112-113頁〕。1141年、要請に応えたサンジャルは自ら軍隊を指揮し、西カラハン朝の首都サマルカンドに入城した。セルジューク朝の臣従国であったホラズム・シャー朝の手引きによって西遼はセルジューク領に侵入し、セルジューク朝・西カラハン朝と対立していたカルルク族も西遼を頼った〔Biran, Michal. (2005), 41-43頁〕。
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