翻訳と辞書
Words near each other
・ カライワシ目
・ カライワシ類
・ カラインドルー
・ カラインドロウ
・ カライ派
・ カラウィット島
・ カラウパパ
・ カラウパパ国立歴史公園
・ カラウメ
・ カラウルス
カラウン
・ カラウンドラ
・ カラウールバザール
・ カラウーン
・ カラエの戦い
・ カラエクテのカイキリオス
・ カラオキ
・ カラオケ
・ カラオケ joysound wii wiiウェア版
・ カラオケ バナナクラブ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カラウン : ウィキペディア日本語版
カラーウーン
カラーウーンアラビア語: قلاوون / Qalāwūn; الملك المنصور سيف الدين قلاوون الصالحي الألفي al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Qalāwūn al-Ṣālihī al-Alfī, 1220年頃〔長谷部「カラーウーン」『岩波イスラーム辞典』、285頁〕 - 1290年11月10日〔ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、267頁〕〔大原『エジプト マムルーク王朝』、46頁〕)は、エジプトマムルーク朝バフリー・マムルーク朝)の第8代スルターン(在位:1279年-1290年)。即位名により略してマンスール・カラーウーン( الملك المنصور قلاوونal-Malik al-Manṣār Qalāwūn)とも呼ばれる。
カラーウーンより前のマムルーク朝ではマムルーク(軍人奴隷)出身の有力者がスルターンに就くことが多かったが、カラーウーン以降は原則的に彼の子孫がマムルーク朝のスルターン位に就くことになる〔五十嵐大介『中世イスラーム国家の財政と寄進 後期マムルーク朝の研究』(刀水書房, 2011年1月)、12頁〕。マムルーク朝の歴代スルターンの中で4代後の子孫までスルターン位を世襲したのはカラーウーンのみであり、バフリー・マムルーク朝最後のスルターン・サーリフ・ハーッジーはカラーウーンの曾孫にあたる〔ヒッティ『アラブの歴史』下、646頁〕。
カラーウーンは美しい容姿の屈強な体格の持ち主で〔伊藤『モンゴルvs.西欧vs.イスラム 13世紀の世界大戦』、200頁〕、アラビア語を話すことは少なかったと伝えられている〔佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、127頁〕。
== 生涯 ==

=== 若年期 ===
カラーウーンは現在のウクライナからカザフスタンにかけての草原地帯で活動した遊牧民族キプチャクのブルジ・オグルゥ部族の出身である〔ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、104頁〕。幼時に奴隷としてエジプトで売られ、マムルークの将校に買い取られる〔。この時に破格の高値である1,000(アルフ)ディナールで購入されたため、「アル=アルフィー(al-Alfi)」の渾名で呼ばれた〔ヒッティ『アラブの歴史』下、645頁〕〔佐藤『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』、125頁〕〔大原『エジプト マムルーク王朝』、223頁〕。
アイユーブ朝のスルターン・サーリフにより、カラーウーンはバフリーヤ軍団(サーリフが所有するマムルーク)に編入される。
サーリフの死後、カラーウーンはバイバルスアイバク、アクターイら同僚のマムルークと共に、アイユーブ朝のスルターン・トゥーラーン・シャーの暗殺計画に加わった〔大原『エジプト マムルーク王朝』、10頁〕。マムルーク朝の建国後にバフリーヤ軍団の有力者であるアクターイがアイバクによって殺害されると、カラーウーンはバイバルスと共にシリアのアイユーブ朝の分家の元に亡命した〔大原『エジプト マムルーク王朝』、16頁〕〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)、290頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カラーウーン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Al Mansur Qalawun 」があります。



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.