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カラ・フレグ カラ・フレグ(Qara Hülegü, ? - 1252年)は、モンゴル帝国の皇族で、チャガタイ家の第2代君主(在位:1242年 - 1246年, 1251年)。チンギス・カンの次男チャガタイの長男であるモエトゥケンの四男、つまりチンギス・カンの曾孫である。オイラト王家出身のオルクナ・ハトゥンを娶り、彼女との間に後にムバーラク・シャーを儲けた。『元史』では合剌旭烈大王、『集史』などのペルシア語表記では قرا هولاكو Qarā Hūlākū、『高貴系譜(Mu'izz al-Ansāb)』では(一部、『五族譜(Shu'ab-i Panjgāna)』でも) قرا هولاووQarā Hūlāwū とも書かれる。 == 生涯 ==
モエトゥケンはホラズム・シャー朝討伐戦でチンギス・カンがバーミヤーンを包囲している最中に矢傷を受けて戦死し、チャガタイはその他の実子たちのうち三男ベルガシを後継者にしたが、ベルガシも13歳で亡くなった。このため、チャガタイはモエトゥケンの四男であったカラ・フレグを後継者として指名し、1242年にチャガタイが死去すると後継者となった。 バトゥ・モンケとグユクによる後継者争いでは中立を保っていたが、叔父イェス・モンケはグユクを強力に支持した。このため1246年にグユクが大ハーンとして即位すると、若年であるから当主にふさわしくないとしてグユクの介入を受けて当主の座を追われ、新たにイェス・モンケが即位した。 グユクの死後、1251年にモンケが即位すると、グユク支持者だったイェス・モンケはモンケの介入を受けて廃され、代わってカラ・フレグが復位することになった。しかしカラ・フレグは正式に当主として承認してもらうためにモンケの許に赴く途中で病死したという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カラ・フレグ」の詳細全文を読む
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