|
カリシュ (、、、イディッシュ語: 、)は、ポーランド中央部の都市。ヴィエルコポルスカ県南東部を流れるプロスナ川に面し、市は、近隣の都市オストロフ・ヴィエルコポルスキ、スカルミェルジツェとコナベーションを形成する。 カリシュは、重要な地域の工業と通商の中心地である。多くの有名工場があり、カリシア (Calisia) ブランドのピアノ工場がある。市は、伝統的に民俗芸術の中心地でもある。 == 歴史 == ===古代から中世へ=== カリシュは現在、ポーランド最古の都市と考えられている。それはプトレマイオスがこの町を「カリシア」 (Calisia) と書き残しているからである。町は、ゲルマニアの琥珀の道途上にある、大部族連合ヴァンダル族のうちの一部族であるディドゥン族 (Diduni) の領土であった。市の中心部がどの場所にあったか定かでないが、現在の市の中心部には2世紀から人が定住していた。一帯からローマ時代の加工品が多く出土している。これは、バルト海へ向かうローマ帝国の商隊の停留する場所であったことが指摘できる。 ===中世の繁栄=== 現代のカリシュは、城代の直轄区及び小規模砦として、おそらく9世紀頃につくられた。ケルト語で川の流れを意味するcal、もしくは古い西スラヴ語で泥沢地か湿地を意味するkalから名前が生じた。1106年、ポーランド王ボレスワフ3世が町を攻略し、彼の封土と併合した。1253年から1260年の間、町はシロンスク(シレジア)のシロダ・シロンスカ (:en:Środa Śląska) の次に、マクデブルク法の地方令であるドイツ特権都市令 (de) によって特権を授けられ、すぐに成長を始めた。ヴィエルコポルスカ地方有数の裕福な町となり、中世ポーランドの封建制分裂時代には、ポーランド王家であるピャスト家の分枝によって治められる独立公国を形成していた。ポーランド再統合後、町は織物業と林業の中心として知られるようになった。同時に、ヴィエルコポルスカの文化の中心であった。一帯の経済成長には''Jednota bratrská (Bracia czescy)''(日本語ではボヘミア兄弟団と訳される)という多くのフス派プロテスタント移民も寄与した。彼らは、フス戦争後にボヘミアから追放されカリシュとその周辺へ定住していたのである。 そしてユダヤ人も、1139年頃からカリシュへ定住した。1264年には、ユダヤ人の自由と安全を保障する「カリシュの法令」が発布された。当初はカリシュを含めた大ポーランド公国の法律であったが、まもなくこれはポーランド王国全体の法律に昇格した。これによりポーランド王国の社会はユダヤ人にとって住みよいものとなり、ドイツなどといった当時のヨーロッパ各社会でペスト禍をめぐる集団ヒステリーによりひどく迫害されていたユダヤ人たちは安住の地を求めて大挙してポーランドへ移住してきた。また、他国とは生活習慣が異なり都市でも密集居住や不衛生な環境を嫌うポーランドでは、大規模なペスト流行が起きなかった(右図参照)ため、ペストをめぐる奇妙な反ユダヤ主義的迷信も広がらなかった。これによってポーランドはヨーロッパで最大のユダヤ教徒人口を抱える国となっていく。 1282年、市令がプシェミスウ2世によって認証され、1314年には、ヴワディスワフ1世の定めたポーランドの地方行政区画の一つ、カリシュ県の首都となった。通商の有名な中心として、カリシュは多かれ少なかれポーランドの中心地の地位にあった。戦略的要所にあることから、1343年にカジミェシュ3世がこの地でドイツ騎士団とカリシュ条約に署名している。王立特権都市として、市は事実上の特権に守られ、1426年にはタウンホールが完成した。そして、ポーランド王ミェシュコ3世はカリシュに埋葬されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カリシュ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kalisz 」があります。 スポンサード リンク
|