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カルヌントゥム
カルヌントゥム(Carnuntum)はローマ帝国の重要な軍駐屯地で、現在のオーストリアに位置した。もともとはノリクム属州にあったが、紀元1世紀以降はパンノニア属州となった。ウィーンとブラチスラヴァを結ぶ幹線道路の中間あたりに遺跡があり、今は「カルヌントゥム考古学公園」となっている。現在の行政区域で言えば、ニーダーエスターライヒ州のペトローネル=カルヌントゥムとバート・ドイチュ=アルテンブルクという村にまたがって広がっている。 == 歴史 == カルヌントゥムはローマ軍の駐屯地として始まった。その名称は碑文上は "K" で表されていることが多く、''Kar'' または ''Karn''(岩、ケアンの意)に由来している。歴史上その名前が初めて登場したのはアウグストゥスの治世下(紀元6年)で、ティベリウスがマルボドゥウス討伐の遠征の基地として使用した。第15軍団アポリナリスの駐屯地となったことで、大規模なローマ化が行われた。数年後、ウィンドボナ(現ウィーン)より下流のドナウ川沿いの要塞化の中心となった。トラヤヌスおよびハドリアヌスの治世下では、カルヌントゥムが第14軍団ゲミナの恒久的駐屯地となった。 古くから、北方からもたらされたコハクをイタリア方面に売る市場としても栄えた。いわゆる琥珀の道はカルヌントゥムのあたりでドナウ川を渡っていた。ハドリアヌス帝がここに都市(アエリウム・カルヌントゥム)を築き、マルクス・アウレリウスはそこでマルコマンニとの戦争中の3年間を過ごし、『自省録』の一部もそこで書いた。セプティミウス・セウェルスはパンノニア属州総督としてカルヌントゥムにいた193年、軍団兵の推挙で皇帝を僭称した。4世紀にはゲルマン人の侵入でカルヌントゥムが破壊された。ウァレンティニアヌス1世が部分的に修復したものの、かつてほどの重要拠点ではなくなり、このあたりの中心地はウィンドボナに移った。中世になるとハンガリー人がカルヌントゥムを完全に破壊した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルヌントゥム」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carnuntum 」があります。
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