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カルパト・ウクライナ共和国()は、1939年3月14日にチェコスロバキアから独立した国家。しかし、独立後すぐにハンガリー王国の侵攻を受け、3月16日に併合された。 == 歴史 == === 前史 === チェコスロバキア東部にあるカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia)は、ウクライナ人が多く住む地方でありとも呼ばれていた。しかしカルパティア山脈という障壁により、歴史的にはウクライナと異なる国家に統治され続けた。9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。 16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された。オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。 1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。ロシア帝国もロシア革命で崩壊していたため、カルパティア・ルテニアとブコビナ、リヴィウ等のウクライナ人も蜂起し、10月18日に西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。西ウクライナはウクライナ人民共和国との合同を目指したが、1919年7月のポーランド・ウクライナ戦争の結果、ウクライナの合同は不可能となった。共和国は分割され、カルパティア・ルテニアはトリアノン条約とサン=ジェルマン条約により、チェコスロバキアに編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルパト・ウクライナ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carpatho-Ukraine 」があります。 スポンサード リンク
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