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カルロス・アリアス=ナバーロ : ウィキペディア日本語版 | カルロス・アリアス・ナバーロ
ドン・カルロス・アリアス・ナバーロ、初代アリアス・ナバーロ侯爵(, 1908年12月11日 – 1989年11月27日)は、スペイン・マドリード出身の政治家。マドリード市長(1965年-1973年)やスペイン首相(1973年-1976年)を務め、フランコ体制下のスペインでもっとも著名な政治家のひとりである。 フランコ独裁政権末期からの初期には穏健な指導者に変わったが、それ以前には白色テロに関与していた強硬派の政治家であり、スペイン共和国の解体時には数千人の死刑手配状に署名した〔Ignacio Fontes; Manuel Ángel Menéndez: ''El parlamento de papel: La mirada gráfica,'' el enfoque literario, 2004, p. 126〕。 == 経歴 ==
=== フランコ体制下 === 1908年12月11日にマドリードに生まれ、マドリード大学で法学の学士号を取得した。1929年に法務省に入省し、マラガで検察官を務めた。その後右派に接近し、スペイン内戦中の1936年にファランヘ党員となった。1937年の後にマラガが反乱軍に制圧されると、検察官だった彼はマラガにいる右派によって裁判にかけられた〔Beevor, Antony ''The Battle for Spain'' (Penguin 2006).〕。共和国側支持者を見つけては死刑を宣告したため〔Málaga XX, Historia de un siglo: La Segunda República y la Guerra Civil ディアリオ・スール〕、「マラガの残虐者」というニックネームを授けられた〔Hugh Thomas: ''Historia de la Guerra Civil Española''; 1976; p. 636〕。マラガでは反乱軍の勝利後に計17,000人が死刑になったと推定されており、もっとも過酷な抑圧地のひとつだった〔El «holocausto de Málaga マラガ・オイ, 2008年8月18日〕〔San Rafael: la mayor fosa del país ラ・オピニオン・デ・マラガ〕〔Málaga, 1937 プブリコ, 2007年10月4日〕。フランコ独裁政権期の1944年にはレオン県の知事に、1951年にはサンタ・クルス・デ・テネリフェ県の知事に、1954年にはナバーラ県の知事に就任した。1965年には出身地のマドリード市長となり、1973年6月まで首都の市長を務めた。1973年6月にはフランコの後任としてルイス・カレーロ・ブランコが首相となり、アリアス・ナバーロはカレーロ・ブランコ内閣の内務大臣となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルロス・アリアス・ナバーロ」の詳細全文を読む
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