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カロドン・ミュアの戦い : ウィキペディア日本語版 | カロデンの戦い[かろでんのたたかい]
カロデンの戦い(Battle of Culloden)は1746年4月16日にスコットランドのハイランド地方インヴァネス近郊のカロデン湿原(ムア)において、ジャコバイト軍とグレートブリテン王国(以下イギリス又は英国と表記)軍との間で行われた戦いである。日本語では「カロデン・ムアの戦い」「カロドンの戦い」「カロドン・ムアの戦い」とも表記される。 この戦いでジャコバイト側は完敗、ブリテン島でのジャコバイト運動はほぼ鎮圧されその組織的抵抗は終わりを告げた。また、戦闘終了後にイギリス政府軍総司令官カンバーランド公ウィリアム・オーガスタスがジャコバイト軍の敗残兵に加えた虐殺は後世長くスコットランド人の対イングランド感情に影を落とした。 == チャールズ・ステュアートの英本土上陸 == 1745年、英国王位の王位請求者であるチャールズ若僭王ことチャールズ・エドワード・ステュアートはフランスの後押しを受けてスコットランドに上陸。ハイランドの氏族やカトリック教徒たちを集め、王位簒奪の兵をおこした。ジャコバイト軍はエディンバラを占領、いまだ本格的な反撃態勢を整えられずにいる政府軍の微弱な抵抗を立て続けに破っていった。11月8日、ジャコバイト軍はスコットランド南部国境を突破しイングランドへ侵攻、カーライル、マンチェスターさらにダービーへと軍を進めた。もっともこのままブリテン島全土を軍事制圧できるとはさすがにチャールズは考えておらず、あくまでジョージ2世をハノーファーに追いやるための示威行動であったと考えられている。 チャールズはフランスに援軍を乞いつつ、イングランドで蜂起を呼びかけた。しかしイングランドでは厳しい差別に晒されていたカトリック教徒であるチャールズの呼びかけを民衆はほぼ黙殺、11月末になってフランス艦隊が援軍800人を上陸させたが、一方でカンバーランド公率いる政府軍出撃の報が届いた。やむを得ずジャコバイト軍は北方に退きハイランド地方で態勢の立て直しをはかった。政府軍は翌1746年1月30日にエジンバラを奪還、さらにアバディーンにまで北上後進軍を一旦停止、ジャコバイト軍の動静を窺った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カロデンの戦い」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Culloden 」があります。
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