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カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン : ウィキペディア日本語版 | カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン
カロリーネ・エリーザベト・プリンツェシン・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク(独:Carolyne Elisabeth Fürstin zu Sayn-Wittgenstein-Berleburg-Ludwigsburg, 1819年2月7日 モナスティリシカ - 1887年3月10日 ローマ)は、帝政ロシアのドイツ系上級貴族ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク家の侯子ニコラウスの妻。結婚前の姓名はカロリーナ・エルジュビェタ・イヴァノフスカ(波:Karolina Elżbieta Iwanowska)といった。作曲家フランツ・リストの終生の伴侶として知られる。 == ロシア貴族の妻 == 裕福なポーランド人貴族のピョトル・イヴァノフスキ(''Piotr Iwanowski'')とその妻パウリーナ・ポドフスカ(''Paulina Podowska'')の間の娘として、ガリツィア(当時はオーストリア帝国領)のモナステジスカ(現在のウクライナ領テルノーピリ州モナスティリシカ)に生まれた。両親によって厳格なカトリック教育を受け、想像力豊かだが強情な性格に育った。幼い頃から多くの書物を読み、若い頃から確固たる考え方の持ち主だった。12人もの家庭教師が入れ代わり立ち替わりカロリーネを従順な娘に変えようとしたが、無駄だった。 1836年4月26日にヴォロニンツェにおいて、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ルートヴィヒスブルク家の侯子ニコラウス(1812年 - 1864年)と結婚した。ニコラウスはドイツ出身のロシア元帥ピョートル・ヴィトゲンシュテイン侯爵の末息子で、当時はキエフ県知事の副官としてウクライナ地方に赴任していた。カロリーネは良縁を望む父親の願いを聞き入れてこの結婚に踏み切った。しかし夫妻は結婚後1年で別居し、カロリーネは相続した南ウクライナのヴォロニンツェの所領にひきこもった。彼女はこの地でひたすら知的・宗教的関心を慰める生活を送り、文学や哲学を研究し、そして所領の経営に専念した。 カロリーネと夫ニコラウスとの結婚生活は初めから上手くいかなかった。もともと性格的にそりが合わなかったうえ、カロリーネがきわめて教養深く、音楽的な関心を有している一方で、ニコラウスはそうした知性や趣味を持ち合わせなかった。しかし田舎の孤独な生活は、カロリーネの社交生活への欲求を満たすことは出来なかった。
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