翻訳と辞書
Words near each other
・ カロル
・ カロル1世
・ カロル1世 (ルーマニア王)
・ カロル2世
・ カロル2世 (ルーマニア王)
・ カロルコ・ピクチャーズ
・ カロルコ映画
・ カロルス・クルシウス
・ カロルス・リンネウス
・ カロルツィオコルテ
カロル・クチェラ
・ カロル・シマノフスキ
・ カロル・シマノフスキー
・ カロル・スタニスワフ・ラジヴィウ (1669-1719)
・ カロル・スタニスワフ・ラジヴィウ (1734-1790)
・ カロル・ストリヤ
・ カロル・スヴェルチェフスキ
・ カロル・タウシク
・ カロル・ディビン
・ カロル・ディビーン


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

カロル・クチェラ : ウィキペディア日本語版
カロル・クチェラ

カロル・クチェラKarol Kučera, 1974年3月4日 - )は、スロバキアブラチスラヴァ出身の男子プロテニス選手。2005年度の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、同僚のドミニク・フルバティとともに、スロバキア・チームを史上初の「ワールドグループ」決勝戦に導いた。シングルス自己最高ランキングは6位。ATPツアーでシングルス6勝を挙げた。身長187cm、体重77kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。
== 来歴 ==
1992年にプロ入りし、1993年全仏オープン4大大会に初出場。1994年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップスロバキア代表選手になる。1993年チェコスロバキアが連邦解体したことにより、チェコ共和国とスロバキア共和国が独立国家となり、「スロバキア」チームとしてのデビスカップ初参加は1994年であった。クチェラはスロバキア・チームの発足当初から、国の代表選手として活動を続けてきた。1995年6月にオランダ・ロスマレンの大会でツアー初優勝を果たす。
クチェラのテニス経歴のハイライトは、1998年全豪オープンのベスト4進出であった。この時クチェラは、準々決勝で当時の世界ランキング1位であったピート・サンプラスを 6-4, 6-2, 6-7, 6-3 で破ったが、続く準決勝でペトル・コルダに 1-6, 4-6, 6-1, 2-6 で敗れ、決勝進出を逃した。この年は全米オープンでもベスト8進出があり、これで世界ランキングを自己最高の6位に上げる。同年11月、男子テニスツアーの年間最終戦で、世界ランキング上位の8名しか出場資格を得られない「ATPツアー世界選手権」(現在の名称は「ATPワールドツアー・ファイナル」)の出場権も獲得した。
その後は1998年度のような好成績は出せなかったが、2003年2月にデンマークコペンハーゲンの大会でツアー6勝目を達成する。2005年デビスカップで、スロバキア・チームは初めて世界最上位の16ヶ国で構成される「ワールドグループ」の決勝戦に進出し、12月2日-4日にスロバキアの首都・ブラチスラヴァクロアチアと対戦した。クチェラは第1試合のシングルスでイワン・リュビチッチに敗れ、スロバキア・チームは地元の声援を生かせずに、クロアチアに「2勝3敗」で敗れてデ杯初優勝を逃した。この試合の後、クチェラは現役引退を表明し、13年のテニス人生に終止符を打った。
カロル・クチェラはオリンピックのスロバキア代表選手としても、1996年アトランタ五輪2000年シドニー五輪2004年アテネ五輪の3度出場を果たしている。
引退後は指導者として活動しており、スロバキアの後輩選手マルティン・クリザンのコーチを務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カロル・クチェラ」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.