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カンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネス()あるいはカンピオナート・スルアメリカーノ・ヂ・カンピオンイス()は、1948年にチリ・サンティアゴで開催されたサッカー大会であり、スポーツの歴史上で初の全大陸的な大会であった。大会名は「チャンピオンの南米チャンピオンシップ」の意で、日本語では南米クラブ選手権とも呼ばれる。 大会は2月11日から3月17日まで行われた。大会はラウンドロビン方式で行われ、最多勝点を獲得したヴァスコ・ダ・ガマが優勝した。この大会はコパ・リベルタドーレスの前身と見られており、コパ・リオ・デ・ラ・プラタと共に南米クラブ選手権の創立に向う重要な足掛かりと見なされている。 ==概要== 1910年代初頭から、アルゼンチンとウルグアイのクラブはコパ・リオ・デ・ラ・プラタ(両国の国内トップリーグのチャンピオンによる大会)を争っていた。この大会の大きな成功により大陸選手権を開催する考えが生まれた。 1929年、ナシオナル会長のRoberto EspilとJosé Usera Bermúdezは、南米サッカー連盟(CONMEBOL)のそれぞれの国のチャンピオンによる大会を思い描いた。地理的な分布と距離を分析した後、Espilは各国の準優勝クラブも含むプロジェクトを1946年に考案した。しかしながら、1930年代末に初めてこの着想の計画を立て実現したのは、コロコロ会長のDon Robinson Alvarez Marínであった〔La Nación; Historia del Fútbol Chileno, 1985〕。1948年、南米連盟会長のDon Luis Valenzuelaはついにコパ・デ・カンペオネス(チャンピオンズ・カップ)に向けて動き出した。 アウグスト、バルボーザ、ダニーロ、フリアーサ、アデミール、シッコらを擁したヴァスコ・ダ・ガマは、最終戦でリーベル・プレートと引き分け優勝を決め、トロフィーを持ち去った。ヴァスコ・ダ・ガマは既にリトラルとエメレクをそれぞれ1対0、ナシオナルを3対1、デポルティーボ・ムニシパルを4対0で破り、ホストクラブのCSDコロコロとは1対1で引き分けていた。大会は試合的にも財政的にも成功し、1試合の平均観客数は39,549人であり、9,493,483 CLPの総収入が得られた〔La Nación. Tomo 8, p. 15-16.〕。 この大会は、ヨーロッパにおけるヨーロピアンカップの創設のきっかけともなった。大会に居合わせていたフランスのジャーナリストJacques Ferranはフランスの新聞レキップで大会について取り上げた。Ferranは大会に心を奪われ、ヨーロッパに戻るとレキップ編集長のGabriel Hanotにアイデアを伝えた〔Primeira Libertadores - História (Globo Esporte 09/02/2008) 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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