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カンボジア・ベトナム戦争 : ウィキペディア日本語版
カンボジア・ベトナム戦争[かんぼじあ べとなむせんそう]

カンボジア・ベトナム戦争(カンボジア・ベトナムせんそう、柬越戦争)は、冷戦の地政学的状況下で戦われたベトナム社会主義共和国民主カンプチアの間の武力衝突である。戦争は1975年から1977年にかけて、ベトナムとカンボジアの陸海国境に沿った限定的な衝突に始まり、時には師団規模の軍事編成での衝突に発展した。1978年12月25日、ベトナムはカンボジアへの全面的な侵攻に踏み切り、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)を政権から駆逐し、カンボジア国土の大半を占領した。
== 概要 ==
ベトナム戦争中、ベトナム共産党とクメール・ルージュは、両国内の親米政権に対抗するため連合を形作っていた。しかし、ベトナムとの共闘を誇示していたにもかかわらず、クメール・ルージュ指導部は、ベトナム共産党がこの地域における優勢な軍事力でインドシナ連邦を形成しようと策動していることを恐れていた。優勢な状態にあるベトナムの計画を阻止するため、1975年にロン・ノル政権が降伏したとき、クメール・ルージュ指導部は、ベトナムで訓練を受けた同志を粛清し始めた。間もなく、1975年5月、クメール・ルージュに支配された新生民主カンボジアは、ベトナムに対する戦争を開始し、まずベトナムのフーコック島を攻撃した。両国の間で戦闘が行われたにもかかわらず、再統一したベトナム指導部とカンボジア指導部は、1976年を通じて表向きは両国の強力な関係を強調する外交を展開した。しかしその裏で、カンボジア指導部はなおもベトナムの拡張主義と認識していたものを恐れていた。そのような中で1977年4月30日、カンボジアはベトナムに対する別の大規模な軍事攻撃を開始した。カンボジアの攻撃に衝撃を受けて、ベトナムはカンボジア政府を交渉のテーブルにつかせることを目的に、1977年末に報復攻撃を開始した。1978年1月、ベトナム軍はその政治目的に達しなかったため、撤退した。
中国が両国の平和交渉の仲介に当たろうとする中で、1978年を通じて両国間に小競り合いが続いた。しかしいずれも交渉の席で受諾可能な妥協には至らなかった。1978年末までにベトナム指導部は、民主カンボジアのクメール・ルージュ政権を、中国寄りでベトナムに反感を持ち過ぎると見なし、排除することに決定した。1978年12月25日、ベトナム軍15万人が民主カンボジアに侵攻し、ほぼ二週間でカンプチア革命軍を殲滅した。1979年1月8日、親ベトナムのカンプチア人民共和国 (PRK) がプノンペンで建国され、十年に及ぶベトナムの占領が始まった。この時期、クメール・ルージュ率いる民主カンボジアでは、数個の武装抵抗集団がベトナムの占領に抵抗するべく結成され、依然として国際連合からカンプチアの正当な政権と認められていた。その裏でPRKのフン・セン首相は、平和交渉を始めるために、民主カンボジア連合政府 (CGDK) の各派に接近した。国際社会からの強力な外交圧力と経済圧力の下、ベトナム政府は一連の経済改革と外交政策の改革を行い、1989年9月にカンボジアから撤退することになった。
1990年に開かれた第3回ジャカルタ非公式会議において、オーストラリアが主導するカンボジア和平計画の下、CGDKとPRKの代表団は、最高国民評議会 (SNC) として知られる統一政権を樹立し、権力を共有することで合意した。SNCの役割は、国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC) が、カンボジア政府が平和的で民主的な過程を通じ、人民により選ばれるまでカンボジア国内の政策を管理することを任務とするものである。とはいえSNCは、国際社会においてカンボジアを代表することになった。クメール・ルージュ指導部は総選挙に参加しないと決定していたため、カンボジアの平和への道筋は難航があきらかであった。彼らは参加の代わりに国連平和維持部隊への軍事攻撃を開始し、ベトナム系住民を殺害することで選挙運動を粉砕する道を選んだ。1993年5月、シハヌークのフンシンペックは、総選挙に勝利してカンボジア人民党 (CPP) を破った。しかしCPP指導部は敗北を認めることを拒否し、CPPの票のほとんどが投じられたカンボジア東部の県が、カンボジアから分離すると発表した。そのような結果が起こらないよう、フンシンペックの指導者ノロドム・ラナリットは、CPPとの連立政権を樹立することで合意した。間もなくして立憲君主制が復活し、クメール・ルージュは新生カンボジア政府により非合法化された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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