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カンプチア救国民族統一戦線(カンプチアきゅうこくみんぞくとういつせんせん、、FUNSK、、KUFNS)は、後のカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)の母体となった反ポル・ポト派の政治的・軍事的組織〔David P. Chandler, A history of Cambodia, Westview Press; Allen & Unwin, Boulder, Sydney, 1992〕〔『東南アジア史』, p.471〕。 ポル・ポト派の粛清を逃れベトナムへと逃亡した元クメール・ルージュ地方幹部らによって1978年12月2日に結成され、同年12月25日にはベトナム軍の支援を受けてカンボジアに侵攻、1979年1月7日に首都プノンペンを制圧し、民主カンプチア(ポル・ポト派=クメール・ルージュ政権)を崩壊させた〔〔JICA援助研究会, p.84〕。その後、ヘン・サムリンを国家評議会議長とするカンプチア人民共和国の成立が宣言され、カンプチア救国民族統一戦線は、ポル・ポト政権下で荒廃しきった国家を立て直す礎として活動した。なお組織が拡大し、またカンボジアが歴史的に変化を遂げていくのに合わせて、数度にわたり組織の名称を変えている。 ==沿革== ===カンプチア救国民族統一戦線(1978年 - 1981年)=== カンプチア救国民族統一戦線(以下 FUNSK )は、政治的にはマルクス主義政党カンプチア人民革命党(KPRP)の包括的組織(umbrella organization)である。 1977年、カンボジア東部で血の粛清を行ったクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の反ベトナム政策と相容れないカンボジア人共産主義者らは、クメール・ルージュからカンボジア東部のクラチエ州一帯を解放し、クラチエ近郊でFUNSKを結成した〔Michael Vickery, ''Cambodia 1975-1982''〕。クメール人社会主義勢力の過激派の中にはFUNSK結成日の1978年12月2日を「再建大会("Reunion Congress")」と呼ぶものもあった〔Kathleen Gough, ''Interviews in Kampuchea''; Bulletin of Concerned Asian Scholars, Vol. 14, 1982 〕。 ポル・ポト政権に対する反政府運動を拡大し、ポル・ポト派の恐怖政治を打破することを目的として結成されたFUNSKは、国の再建策として11の案を掲げた。これらの案は国民にカンプチア人民共和国(PRK)建国後の国家再建への支援を促すだけではなく、クメール・ルージュよりもより穏健・実践的かつ人道的なアプローチをとることによって、新国家の親ソ連的体制への支持を働きかけるものであった。 なおFUNSK幹部はカンプチア人民革命党(KPRP)の共産主義者が占め、カンボジア仏教徒といった非共産主義者幹部、あるいは女性幹部は、ごく僅かであった〔Role of Buddhism in Cambodian Life 〕。 ポル・ポト派や世界各国の間には、このカンプチア人民共和国がベトナムの傀儡政権であると決め付ける声もあった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンプチア救国民族統一戦線」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kampuchean United Front for National Salvation 」があります。 スポンサード リンク
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